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2018年4月15日 (日)

資料の残り方とその評価2

 申状で国造側は神主について、幕府からの代々安堵と不易の御下知により、孝時が神主であることは相違なしとして、領家進止との主張を批判する。幕府からの申し入れにより領家が重代相伝に任せて社領を一所残らず義孝に安堵したと記すが事実とは異なっている(実際に社領については裁判が継続している)。安堵を受けたことを国造が三月に幕府に注進し、それに対する幕府からの回答が五月一七日御教書であった。よって建治二年に不易の御下知が出されたとする国造側の主張は誤りである。
 それゆえ、弘安一〇ないし一一年の小規模な本殿(その意味で仮殿と評価ヵ)遷宮が終わった後、再び出雲実政が領家(本家の交代に伴い兼嗣から某御房に交代、次いで廊御方に交代)から神主に補任され、それを義孝の子泰孝が幕府に訴え、正応五年には幕府が廊御方に泰孝を補任するよう求め、永仁五年には実政の越訴が幕府によって棄却されている。これにより実政は神主職をめぐり国造泰孝と対立する方針を転換し、領家の雑掌となることで対抗していった。
 この泰孝と実政の相論と平行して領家をめぐる松殿兼嗣と廊御方の相論も行われていた。背景は弘安六年の安嘉門院の死により新たな本家となった亀山院が兼嗣に代えて新たな領家を補任したことによる。兼嗣側は本家が代わろうと相伝知行してきた権利は認められなければならないと過去の例に基づき主張し、少なくとも嘉元四年には兼嗣は杵築大社領の領家の地位を回復していた。領家松殿氏と結ぶ実政と、幕府と結ぶ国造という図式で対立が続いていった。延慶二年以降の訴訟は雑掌が社領等を押領したとして、国造側が訴えたものであった。神主職こそ確保したが、なおその権利を制限する実政の活動は継続しており、国造側の主張とは異なり正和三年の時点でも相論は継続中であった。

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