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2018年4月 7日 (土)

院政期の因幡国司2

 長承三年(1134)二月二四日に因幡守に補任されたのは西園寺公通であった。これまた待賢門院の近親者である。次いで保延六年(1140)四月の公通の因幡守辞任をうけて四月七日には藤原敦兼の子季行が因幡守に補任された。五ヶ国の国司を歴任し、大宰大弐になるとともに公卿となった。季行は藤原長実の姉妹を母とし、その妻は美福門院が生み二条天皇皇后となった内親王(1141年生)の乳母となった。その娘には九条兼実の嫡子良通を生んだ女子もおり、九条家との関係も有していた。
 康治二年(1143)一二月三〇日に季行と武蔵守を相博する形で因幡守となったのは藤原信輔であった。母は待賢門院の姉妹である三条公実の娘であり、若狭守であった長承元年一〇月には待賢門院の娘禧子内親王御給で従四位上に除せられている。その子信隆は一条家の、親信は水無瀬家の初代となり、院との深い関係を持った。
 信輔は久安六年(1150)一二月一三日まで現任が確認出来るが、仁平元(1151)年一月には藤原盛隆が因幡守に補任されている。ただこれ以外に因幡守に関する史料は無く仁平二年(1152)八月一〇日にはその異母兄弟藤原盛方が現任している。信輔は二期八年務めたのだろう。盛隆の年齢は不詳だが盛方は因幡守長隆の孫であるが一六才であり、父盛時が知行国主であった可能性がある。盛方は久寿元年(1154)二月八日には陸奥守に補任されている。盛時の室には信輔の娘がおり、盛隆や有隆という子がいたが、盛方は平忠盛の娘を母としていた。一方盛隆は長寛二年(1164)正月二一日には甲斐守に補任され、仁安元年(1166)八月二七日に止任となるまでは丹波守であった。
 久寿元年(1154)正月に盛方に替わって因幡守に補任されたのは信輔の子信隆であった。二条天皇に代えて高倉天皇を擁立する隠謀に関わったとして応保元年(1161)九月二八日に解任されるまでは因幡守であったと考えられ、保元の乱の影響は受けていない。
 これに替わったのは鳥羽院の近臣藤原家成の子隆季の子達であった。応保元年一〇月一九日には隆房が補任され、嘉応二年正月には隆保が、治承二年正月二八日には隆清が相次いで因幡守に補任され、この間の知行国主は院近臣である父隆季であったと思われる。兄弟である成親と師光(隆季養子)が鹿ヶ谷の陰謀で滅亡させられたのに対して、隆季の妹が平清盛の嫡男重盛の室であり、平家との関係も維持しつつ昇進した。
 平家の都落ち後、隆季とその子等は厳しい状況に置かれたと思われる。治承四年(1180)一一月一七日には隆季が知行国主であったことが、養和元年五月二七日には隆清が因幡守であったことは確認できるが、源義仲の入京とその滅亡、平氏の滅亡という政治的変動を経て、元暦元年九月一八日には頼朝に仕える京下りの公家である大江広元が因幡守に補任されている。知行国主源通親の現任が確認できるのは文治元年一二月二七日であるが、その就任は広元の補任時まで遡るであろう。

 

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