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2018年4月20日 (金)

嘉禎元年の顛倒2

 仮殿造営に関連して顛倒した記事があるが、弘安四年の国造義孝申状に基づき追記・要約した後の史料にある嘉禄元年の顛倒は前述のように嘉禎元年の写し間違いであり、問題は嘉禎元年の顛倒があったかである。『大社町史』では井上寛司氏が嘉禄三年の仮殿遷宮の前に顛倒があったはずとの立場から嘉禄元年に顛倒したとされたが、山岸氏は嘉禄元年は嘉禎元年の誤記とした。三浦正幸氏も同じ見解であるが、前述のように誤記であり、嘉禄元年に顛倒したとの記事はないということになる。『松江市史』では西田友広氏が『大社町史』を論拠に嘉禄元年に顛倒があったと記している。ただし、井上氏は「文献史学からみた宝治」2年の杵築大社造営」(『出雲大社境内遺跡』、二〇〇四年)でも同様の見解であったが、その後の論文集では山岸氏の意見を踏まえて嘉禎元年顛倒説に修正している。
 問題は、義孝申状とその派生史料にのみある顛倒があったかである。嘉禄三年の仮殿遷宮の後、正殿造営が始まったが、その進捗は遅れていた。嘉禎元年一一月の顛倒に対して、同年閏六月八日には領家が神主に対して、造営文書を披見して年内に棟上げをおえるように命じている。しかし造営文書を所持する国造がこれを拒否し、見通が立たないため、九月には領家が出雲真高を解任して国造義孝を神主に補任している。この二ヶ月後に果たして顛倒があったかどうかである。関係文書が何も残っていないことは、その存在を疑わせる。
 造営中の正殿が顛倒した可能性もあるが(山岸氏が主張された儀式としての顛倒とは考えられない)、国造兼神主義孝の記事にはくをつけるためにこの記事が挿入された可能性が大きいと考える。この時期、偽文書ではあるが、嘉禎二年六月五日関東御教書(『松江市史』では正しいものとされている)が残され、そこでは孝綱の子経孝が神主に補任されている。兄孝綱系の経孝と弟政孝系の義孝の間で国造をめぐる対立があったことが反映していると考える。経孝の名前からは将軍頼経との関係もうかがわれるが、後世に作成された文書なので、詳細は不明である。

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