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2018年4月 5日 (木)

成勝寺領寄進時の国司2

 仁平三年(一一五三)五月に知行国主としての現任が確認出来る藤原実範については関係史料がなく系図上の位置づけができないが、久寿二年九月に丹波守に補任された藤原長方は藤原顕隆の孫で、顕頼の甥であり、その姉妹が、顕隆娘を母とする徳大寺公能の子実定の室となっている。徳大寺氏も待賢門院・崇徳院との関係が深かったが、公能は娘を中宮とするなどしだいに後白河との関係を強めていく。以上のように、福貴御園と池上寺が寄進された時期には待賢門院並びに崇徳との関係が深い人物が丹波守であった。
  但馬守については長承二年(一一三三)から保延三年(一一三七)にかけて現任した藤原隆季、久安二年(一一四六)一二月二九日に遷任した藤原経隆が確認できる。隆季は藤原基隆の子忠隆の娘を室としているが、基隆の娘には美福門院女房となったものがある一方で、子忠隆の妻栄子は崇徳の乳母であった。経隆の娘は美福門院の娘八条院の女房となっている。続いて清隆の子光隆と定隆が久安二年から仁平二年にかけて但馬守を務め、仁平二年から保元元年までは藤原長成の現任が確認出来る。長成の室は藤原長忠の娘であり、基隆の室とは姉妹である。
 これを踏まえて出雲守をみると、保安二年(一一二一)一二月一五日から大治三年(一一二八)一二月二九日まで藤原為隆の子憲方が出雲守であった。憲方の室は従姉妹となる顕隆の娘である。為隆の嫡子光房の室と顕隆の嫡子顕頼の室はともに藤原俊忠の娘である。徳大寺公能の室も俊忠娘である。そして憲方が周防守に遷任した後任が経隆であるが、二年後には「藤原光隆」が出雲守に補任された。後に出雲守として杵築大社遷宮をおこなった清隆の子光隆はこの時点では四才にすぎず、別人と思われるが系図上の位置は不明である。次いで保延四年(一一三八)一二月二九日には一二才の光隆が出雲守となり、保延七年の杵築社本殿の顛倒を受けて、仮殿遷宮を行い、出雲守を重任した上で正殿遷宮を終えた翌年の久安二年一二月二九日に但馬守に遷任した。その後任は二度目の出雲守となった経隆であった。次いで、保元の乱の前年である久寿元年正月二三日には源光保が出雲守に補任されたが、鳥羽院の北面から近臣となった人物である。
 以上のように、成勝寺に所領が寄進された際の丹波・但馬・出雲国司は崇徳天皇との関わりを持つ人が多い。当時は鳥羽院との対立も表面化しておらず、鳥羽院の院庁下文に署判を加えている日野資憲が崇徳の最側近であったように、鳥羽院関係者との間に大きな対立があったわけではなかった。

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