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2018年4月18日 (水)

近世における救済と自己責任2

 この本で扱われた論点に関係する一つの実例を紹介すると、宝暦一一年(一七六一)一〇月に、出雲国南部飯石郡のある村では村高の減額が認められたのを受けて、年貢負担者が請文を提出している。寛延四年の検地で一〇五三石と石高が増加したが、これに基づく税負担が過重であると村が訴えた結果、同年に一四五石減石された。その村は広瀬藩に属しており、飯石郡広瀬藩分の人口は元文三年(一七三八)の九一六人が、宝暦一二年には八二三人に減少している。また、出雲国松江藩分(除広瀬・伯太藩分)の年貢収納高をみると、平年が三二万石程度(一七七〇年代以降は三七万石程度に増加)に対して、宝暦五年と宝暦九年が二三万俵台と落ち込んでいる。前年の不作をうけて、宝暦一〇年にようやく減額が認められたのであろう。寛政一一年(一七九九)の検地では村高は九〇三石である。
 宝暦一〇年の請文の署判順は、寛延三年検地の持高順に基づくと思われる。請高をみると五石以上が三七名で、合計一六七名であるが、今回の署判者一二二名は高一斗以上の人だと思われる。この村には治安維持や竹細工の傍らで農業も行う鉢屋(男子)が一一人おり、その内一斗以上の高を持つ六名が署判している。寛延四年に持高が最も多い鉢屋勘蔵は五石三斗五升請け負っており頭であったと思われるが、宝暦一〇年までに死亡したようで、請文には四〇番目に源左衛門が署判している。
 源左衛門は寛延四年時は二斗七升七合の持高であったが、勘蔵の死により頭となり、鉢屋の人々の持高の変更が行われたのだろう。鉢屋の人々の生業において田の耕作の占める割合は百姓の平均よりかなり低かったと思われ、実際の経済力では個人差が大きいが、村の上層に匹敵する経済力を持つ鉢屋がいたと思われる。木下氏の説くように、持高のみで経済力がはかれないが、鉢屋においては持高が頭などの家格を示すことに利用された可能性は大きいのではないか。また、鉢屋の人々が他の百姓と同様、持高に基づく順番で署判を加えていることも注目される。

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