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2018年4月30日 (月)

松殿兼嗣の領家復帰とその後2

 裁判では神主職と社領について争われ、領家側は神主は自らが補任するもので、国造が世襲するものではないことと、社領に関する最終的決定権も領家にあることを主張したと思われる。このうち、神主については以前の実政との裁判で、正応五年に「泰孝は御家人である上に重代として造営旧記を帯びており泰孝が神主に補任されるべきである」との判断を幕府がしており、正和三年八月二七日関東下知状でも同様の判断が下されたが、社領の問題が残され、両方に証拠を提出するように命じられた。これに対して判決直前の七月一六日に兼嗣が三崎社検校に虎一丸を補任しているように、領家にとって幕府の判断は容認できないものであった。
  ところが、兼嗣自身が文保元年(一三一七)三月三日に七九才で死亡した。その子通輔(兼輔から改名)が領家を継承したと思われるが、元亨三年には杵築社の本家職が後醍醐天皇から永嘉門院(父宗尊親王は承明門院の曾孫で、彼女は土御門殿で育つ)に返された。後の裁判で永嘉門院の後継者である柳原宮は、松殿氏による支配は元亨三年以降不知行になったと主張している。これは事実ではないが、本家永嘉門院も元徳元年八月二九日には五八才で死亡しており、そのもとで育てられていた邦良親王も正中三年三月二〇日に二七才で死亡し、残されていた邦良の同母弟邦省は二五才、第一皇子康仁親王は七才であった。
  両者とも歴史に翻弄され、邦省は兄邦良に代わる立太子を望むが持明院統の量仁が皇太子となり果たせず、量仁の次との希望は後醍醐天皇の反対で失敗し、この間後見人洞院実泰も嘉暦二年に死亡した。一方、康仁は後醍醐の隠岐配流後即位した持明院統の光厳天皇の皇太子となったが、後醍醐天皇が復位すると廃太子とされた。
 次いで隠岐に配流されていた後醍醐天皇が皇位に復帰した後の元弘三年一二月一〇日には杵築社の本所号が停止され、本家・領家は中断を余儀なくされたが、建武政権の末には撤回されたのではないか。この間、建武元年五月一八日には神主孝時が領家前雑掌による妨げを訴え、妨げを止め孝時を庄家に沙汰居らせるように命じた雑訴決断所牒が出されている。それが国造孝時の後家覚日は建武二年末には沙汰のため支証を京都にあげたと述べており、建武三年には孝時による領家への反論の申状も作成されている。復活した領家は兼嗣の後継者であり雑掌孝助により越訴が提起された。正和三年に国造の神主職補任については認められたが、それをふくめて再度裁判が行われることになった。その後の史料は残っていないが、貞和二年八月には本所雑掌と国造千家孝宗が杵築社領内で合戦に及び、守護代吉田厳覚の注進に基づき侍所細川の奉書が出されている。対立はなお続いていたのである。この後、観応の擾乱が起こり、幕府から半済令が出される中、領家の関与は弱まったと思われる。本家についても柳原宮は康仁親王の弟邦世親王の一流であり、強力な支配を行うことはできなかったと思われる。

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