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2018年4月22日 (日)

杵築社本殿焼失と神主2

 後嵯峨院の死亡を挟んで、幕府は文永一一年六月一五日と一一月二八日にも六波羅御教書で領家に対して神主に関する口入を行っている。そして、一二月一五日には二年前に国司が独自に付け加えた、国造義孝と共に造営の功を行えとの亀山上皇院宣が出された。この圧力と神主真高による造営が遅れていることにより、領家兼嗣は文永一二年正月には国造義孝を惣検校に補任した。そこでは前国司沙汰の時に杵築社の境外神社である阿式社の寸法により移造すべしとの院宣が出されたのに、現在の国司により義孝所持の日記文書に召し出して、それに基づき造営せよとの命令が出されたため、文書違乱により造営が遅れ、すでに焼失から五年が過ぎてしまったことを神主交代の理由としている。
 文永七年の焼失時と文永九年一二月の院宣で義孝所持の記録に基づき目代に沙汰が命令された時点の出雲守は藤原顕家、知行国主は四条隆親、分国主は後深草上皇で変化はなく、前国司の沙汰とは出雲実高が以前神主であった天福~文暦年間の時のことである。実際には造営が進まなかったため、国造義孝を神主に補任して造営・遷宮が完了したが、領家兼嗣はその点は不案内であった。ところが義孝所持の文書に基づき造営せよとの院宣が出され、義孝は文書の提出を拒否したため、領家も神主の交代を行わざるを得なかった。これをうけて神主に復帰した国造義孝は文永一二年(一二七五)四月に所持する仮殿と正殿の造営目録を提出した。

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