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2018年4月11日 (水)

藤原親隆について2

 永暦元年二月一三日美福門院庁下文に別当としてみえるのが親隆である。またその兄朝隆も美福門院令旨の奏者としてみえるように、二人とも近衛天皇、二条天皇との関係を背景に美福門院に接近していった。朝隆には美福門院女房となり従兄弟である光房(為房の子)の室となった娘がおり、親隆の室は為房の娘であった。 
 朝隆の嫡子朝方は伯父(次兄)顕隆女子を母としたためか、七才で院判官代から蔵人に補任され、父朝隆が三三才で叙せられた従五位上となったのは一四才であった。親隆の嫡子為親は伯父(長兄)為房女子を母とし、従兄弟朝方より一〇才程度年少であったと考えられる。従五位上となったのは朝方と同年齢であったと思われる。ただし三〇才を前に死亡し、朝方と違って公卿になることはなかった。
 朝隆・親隆本人が国守であった国における知行国主の有無は微妙である。朝隆は保延五年正月に信濃守に補任され、康治二年正月まで務めたが、前任者は長承元年一二月に補任された弟親隆であった。親隆の就任時は三五才、朝隆の就任時は四三才であるが、親隆は忠実・頼長父子の家司であり、朝隆は忠通の家司である。知行国主が忠実から忠通に移動したとの解釈も可能である。また、親隆は二八才であった天治二年三月には上総守に補任されている。元永二年七月に補任された前任者の藤原敦俊が六四才で死亡したことにともなうものであった。敦俊は楽器に堪能であった雅楽家敦家の子であったが、その室は堀河天皇乳母であった兼子であった。五味氏の研究では応保二年以降、上総国は摂関家(忠通)の知行国と評価されている。
 親隆は甥である院近臣藤原顕頼(知行国主)の子説頼の跡をうけて久安三年一二月に尾張守に補任された。すでに五〇才であるが、久寿二年一二月に二期八年の任期が満ちて、今度は伊予守に遷任している。この期間に保元の乱が発生し、崇徳・頼長が敗北したが、その影響を受けていない。

 

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