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2018年4月11日 (水)

藤原親隆について3

 自分で調べてみて様々な発見はあるが、この問題の専門家がいてほしいというのが本音である。国守についてはある程度確認出来るが、国衙の問題には権介やその他のポストも関係する。それを確認するためには、全国の都道府県史に頼らざるを得ない。ただし、県史も最近刊行されたものはよいが、古い時期のものはそこまで言及されていないのである。
  権門体制という用語が登場して久しいが案外と実態の解明が進んでいないというのが実感である。問題は権門体制の是非ではなく、各権門間の力関係である。鎌倉幕府成立までは朝廷が中心であったが、承久の乱後は幕府の占める位置が大きくなり、純粋な意味での権門体制が成り立つのは鎌倉初期、とりわけ後鳥羽-実朝時代のみである。寺院をどう評価するかは専門家の研究に待ちたいが、神社を含めて鎌倉期以降は朝廷と幕府(一部は個人も)の寄進に頼らざるを得ず、朝廷・幕府に文句は言えても、それ以上の存在感はないように思われる。 
 とはいえ、杵築社領の領家であった藤原光隆-雅隆-家隆-兼嗣は公卿としては特に目立った存在ではない。光隆と兼嗣は参議(四〇才と三一才で)となったが、雅隆と家隆は非参議の公卿でしかなく、杵築社領以外の庄園は現時点では確認できない。それでも神主補任権を持ち、神主補任を望む人々はそれに従わざるを得なかったのは不思議な気がする。結果としては承久の乱により出雲国衙在庁官人の大半が没落して国造が経済的に優位に立ち、且つ幕府と結んだことで領家の権力を次第に弱めてはいったが、簡単ではなかった。永徳年間に光隆の娘の子である実教に始まる山科氏が将軍義満の側近としての立場を利用して庄園領主としての立場を復活させたことで、その支配は室町幕府の支配が有名無実化する前の文明年間までは継続した。
【補足】伊予守に続いて、親隆は子親雅を国守として保元三年五月六日から永万元年正月二三日までの六年九ヶ月間、長門国知行国主の地位にあった。一方、兄朝隆は嫡子朝方を国守として近江国知行国主の地位にあったが、保元三年八月一〇日には国守を庶弟朝雅に替えた。ところが朝隆の健康問題からか平治元年閏五月末には近江国司を退任した(一〇月三日に六三才で死亡) 。朝雅は叔父親隆の養子となって朝親と改名し、出雲国知行国主となった養父親隆のもとで出雲守に補任された。これに伴い、出雲守平基親とその父で知行国主であった親範は伯耆国に遷任した。
 親隆も長寛元年に出家し、永万元年八月に六七才で死亡するが、その年正月には長門国と出雲国の知行国主を退任した。
このうち出雲国については甥の朝方が知行国主となったが、実子が幼少であったため、藤原敦綱の子朝時を養子として出雲守とした。

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