koewokiku(HPへ)

« 杵築社領の立券1 | トップページ | 杵築社領の立券3 »

2018年4月11日 (水)

杵築社領の立券2

 これに対して資憲は崇徳天皇や忠実・頼長との関係を深め、保元の乱では明暗が分かれる。資長は聖子が皇嘉門院となった時点で皇太后宮権大進を辞して右少弁に転じ、近衛天皇の死亡により後白河天皇が即位するとその蔵人に補任され、平治の乱後の永暦元年には蔵人頭、次いで参議に補任されている。資憲は保元の乱後出家したが、娘が平忠盛の子教盛との間に通盛以下の子をなした関係で、政治力は確保した。教盛も母が待賢門院女房であった関係で、崇徳との関係を有し、その中で婚姻が成立したと思われる。通盛が仁平三年(一一五三)の生まれであり、これを踏まえると、祖父である資憲は永久元年(一一一三)前後の生まれか。
 実光の後任として保延五年から永治元年まで大宰権帥であったのは藤原顕頼であった。顕頼もまた天養二年に丹波国福貴御園を成勝寺に寄進している。永治二年から康治二年まで大宰大弐となった平実親は藤原為房の長子為隆の娘を室とし、その間に生まれた範家は藤原清隆の娘を室としている。為隆は摂関家家司でもあった。康治元年から二年(下限は不明)には源憲俊が大弐となっているが、五味氏は藤原忠実が知行国主として大宰府を掌握していたと評価している。久安五年から仁平三年までは藤原清隆が権帥であるが、仁平二年八月一五日に出雲国飯石郡飯石庄が立券されている。
 揖屋社が立券された天養二年の出雲守は光隆であり、父清隆が知行国主であった。飯石社が立券された仁平二年の出雲守である経隆は二度目で、知行国主はいなかったと思われるが、その姉妹が藤原信通との間に生んだ女子が光隆の室となっている。また兄弟で院近臣であった忠隆は顕頼女子を室としている。すでにみたように、近衛天皇が死亡するまでは鳥羽院と崇徳院の間には大きな対立はなかった。
 以上、検討を加えたが、藤原実光-資憲父子と内蔵忠光-資忠父子の名前の関係を踏まえれば、杵築社領は揖屋庄立券と同時期に、崇徳院を本家、資憲を領家にして、寄進の中心であった内蔵忠光が神主(惣検校)として立券された可能性が大きい。同時期には島根郡佐陀庄が鳥羽院の御願寺安楽寿院に寄進、立券されていた。

« 杵築社領の立券1 | トップページ | 杵築社領の立券3 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 杵築社領の立券2:

« 杵築社領の立券1 | トップページ | 杵築社領の立券3 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ