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2018年4月30日 (月)

松殿兼嗣の領家復帰とその後1

 杵築大社領の本家と領家10で述べた点を再確認し、一部修正する。
 中納言僧都御房については宗派のトップ級の人物であろうが、花押が一致する人物がおらず具体的比定は現時点では困難である。その父親が中納言ないしは権中納言であったためこのような名称で呼ばれている。杵築社領家としたが、その関係史料は出雲実政に関するもので、細引・桑原についても杵築社領に該当する場所が現段階では確認できない。よって、実政は一四世紀初めには中納言僧都が支配する別の所領の預所だと考えるべきであろう。実政の父真高の余類である孝助との裁判の関係で国造側が中納言僧都に照会したことに対する回答であった。
 よって亀山上皇との間に子をなした三条廊御方から中納言僧都に領家が代わったのではなく、廊御方から松殿兼嗣に交代したのである。兼嗣の復帰が確認出来るのは嘉元四年八月であり、前年に亀山上皇が死亡したことによると思われる。廊御方と兼嗣の裁判が幕府で行われていたが、大覚寺統の実権を握っている亀山上皇が健在なうちは、幕府も領家の交代命令は出せなかった。
 基本的には兼嗣は代々領家を務めてきたので、本家が代わってもその権利は認められるとの主張がようやく認められたのであろう。兼嗣は千家村を五辻三位親氏に譲ることを約束しているが、親氏の姉妹宗子は後宇多上皇の子で後二条天皇との間に正安二年(一三〇〇)には第一皇子邦良親王を産んでいた。兼嗣は五辻親氏を通じて後宇多へも働きかけ、その見返りとして千家村の譲与を行ったと思われる。
 領家に復帰した兼嗣にとって、過去に不忠のあった実政を預所に起用することはありえず、そのため一族の別の人物である孝助(本名孝覚)が起用されたのだろう。兼嗣と孝助は徳治二年(一三〇七)一二月一五日に父泰孝から神主を譲られた国造孝時に対して厳しい対応をしたと思われる。この点について国造側は雑掌が社頭等を押領したので幕府に訴え、延慶二年(一三〇九)から裁判が始まったとする。

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