koewokiku(HPへ)

« 桛田荘の立券と停廃 | トップページ | 院政期の因幡国司2 »

2018年4月 7日 (土)

院政期の因幡国司1

 何故かこの問題について原稿をアップしていなかったので、確認する。源義親の乱を平定した因幡守平正盛はその功により天仁元年正月二四日に但馬守に遷任した。この除目については白河上皇が初めて主導権を握って行った人事で、その側近七人が熟国の守に任ぜられたことを中御門宗成が批判している。具体的には最下品の正盛が第一国の但馬守に任ぜられたこと、蔵人顕頼が一四才で出雲守に補任されたことを挙げ、その他としては甲斐守藤原師季、伯耆守橘家光、信濃守大江広房、尾張国高階為遠、伊豆守中原宗政が院との関係で優遇されたとする。
 前伯耆守為遠を尾張守に追いやって家光を院分国とした伯耆守に補任したとの評価があるが(佐伯徳哉氏)、六郡の伯耆守から八郡の尾張守への遷任は栄転であろう。当時の尾張国については松島周一「三河守・尾張守としての平頼盛」(愛知教育大・歴史研究60)を見ればわかる。これに対して因幡守に補任された藤原長隆については「蔵人」であることが記されているのみである。
 長隆は藤原為房の子で、源頼国の娘を母とする四人の男子の末弟であるが、長兄為隆とともに、摂関家との関係を有していた。これに対して次兄顕隆と三兄重隆は白河院との関係が強かったが、重隆には実子がなかったこともあり顕隆流が最も繁栄した。長隆は因幡守補任四年目に死亡している。三〇代前半であったと思われる。
 長隆の後任として天永二年(1111)七月二九日に補任された藤原宗成について、五味氏は父宗忠が白河との関係を強めて因幡国を知行国として子宗成を補任したものと評価した。宗忠の日記『中右記』には宗成の因幡下向や都への上洛、目代の派遣など因幡国関係の記事も散見し妥当であるが院分国の可能性も残されている。
 二期八年が過ぎた保安元年(1120)正月二八日に宗成は得替し、藤原時通が因幡守に補任されたがこの時点では院分国であった(中右記保安元年正月二八日条に院分民部卿養子とある)。五味氏は因幡国を時通の父長実の知行国とするが、院分-知行国主-国守という体制も可能であった。その意味で、宗成の時期も院分国とすることが可能である。
 大治二年一二月七日には時通は備後守に遷任し、因幡守には前武蔵守の藤原通基が遷任してきた。後任の武蔵守には藤原公信が補任された。長承元年(1132)正月一九日には通基が因幡守を重任、一〇月には待賢門院分として従四位上に除せられた。通基の妻には待賢門院官女でその娘上西門院の乳母となった女性がいるように、鳥羽院中宮待賢門院と深いつながりがあった。この時期は因幡国は待賢門院の分国ではなかったか。通基の嫡子通重は徳大寺実能の娘を室とし、通基の娘は西園寺通季、その子公通、三条実綱等の室となっている。武蔵守公信は待賢門院の従姉妹実信の子で常陸・若狭・丹波(通基の後任である可能性が大きい)国守を歴任している以外のデータはほとんどないが、大治四年七月七月三日には馬三〇疋を白河法皇と鳥羽上皇に献上しており、以前紹介した平為俊、藤原師季と同様、検非違使・北面からの登用であったと思われる。

 

 

« 桛田荘の立券と停廃 | トップページ | 院政期の因幡国司2 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 院政期の因幡国司1:

« 桛田荘の立券と停廃 | トップページ | 院政期の因幡国司2 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ