koewokiku(HPへ)

« 史料の優先順位 | トップページ | 嘉禎元年の顛倒2 »

2018年4月20日 (金)

嘉禎元年の顛倒1

 宝治二年の正殿遷宮の前提となる仮殿遷宮と顛倒の問題について、再度確認したい。承久二年の段階で、建久元年造営の正殿から御神体を仮殿へ移し、新たな正殿を造営する必要が認識されていたが、当時は鳥羽院が内裏造営を行っており、続いて起こった承久の乱の影響で、造営への着手は遅れていた。仮殿の造営が始まったのが嘉禄二年前半であった。造営は国衙目代と領家が補任した神主によって行われるが、承久の乱で国衙の有力在庁官人のほとんどが没落し、国造を押さえて神主に補任されていた中原孝高も没落した。そのため、国造が神主に補任されたと思われる。ただし国造家でも兄孝綱流と弟政孝流の間で国造をめぐる争奪戦が行われていた。また、国造が神主に補任されるのは当たり前の事ではなく、それ以外の人物が補任されることが珍しくなかったと思われる。
 そうした中、神主国造政孝(ないしは孝綱)・権検校出雲真高の体制がスタートしたが、神主の権限を分割して生まれた権検校について国造は不満を持っており、真高を圧迫した。その結果、領家は国造を神主から更迭し、別の人物を神主に補任したとみられる。これに対して国造政孝が本家承明門院に神主は神殿造営のため補任される相伝の職であると訴え、政孝を神主に補任せよとの院の意向が示された。この結果、政孝が領家から神主に補任され、嘉禄三年六月の仮殿造営が実現した。建治二年二月日領家藤原兼嗣袖判下文には、嘉禄造営時に旧記がないため造営が遅れた際に、旧記を所持する政孝が神主に補任された例にならい、政孝の子国造義孝を神主に補任するとあるが、これについて松薗氏が疑問を呈し、山岸氏もその見解を受け入れているが、事実に基づくものであることは、本家承明門院御教書(『大社町史』では姉小路親王令旨とするが、その根拠が不明である。院の令旨を院の政所別当に伝えるために出されたものである)により明らかである。神主は神殿造営により補任された相伝の職であるとして、政孝の主張を認めている。

« 史料の優先順位 | トップページ | 嘉禎元年の顛倒2 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 嘉禎元年の顛倒1:

« 史料の優先順位 | トップページ | 嘉禎元年の顛倒2 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ