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2018年4月30日 (月)

領家藤原光隆の下文

 建久三年の頼朝の下文は領家光隆の下文をうけて、御家人である内蔵資忠に安堵したものであったが、最初に光隆が資忠を神主(惣検校)に補任したのは文治二年五月三日であった。それを記した『吾妻鏡』の記事は光隆下文を引用した頼朝下文に基づき書かれた可能性が大きい。そこには以下の様に記されている。
 出雲国杵築大社総(惣)検校職事、停止出雲則房、以同資忠令計補給云々
『吾妻鏡』承元二年一一月一日には資忠の子孝元に関する記事が以下のように見えている。
 出雲国杵築社権検校并祝師御供所別当職事、内蔵孝元可被補任之旨、被仰遣領家坊城三品之許、彼孝元父資忠右幕下御時有大功之間、被補件職畢、就其例今又如件云々、加之、孝元当国内拝領数箇所地頭職云々、師文・清定・孝尚等奉行之
 領家下文そのものの復元は単純ではないので、その概要を以下に述べる。頼朝が領家光隆に対して、内蔵資忠を出雲国杵築大社総検校(神主)職に補任することを求める文書を送った。そこには、資忠が頼朝が伊豆国に配流された際の大功が記されるとともに、その父忠光が惣検校を務めたことも記され、重代相伝である旨も記されていた。
 これを受けて光隆は思案した後に、その要請を受け入れる旨、回答したと思われる。一つには孝房は父宗孝の地位を継承し、前年一一月三日出雲国司庁宣で国造に補任され、同時に惣検校に補任されたばかりであり、若かったと思われる。これに対して、資忠は二〇年以上前の頼朝の配流の時点では成人していたと思われ、経験豊かであるとともに、頼朝の御家人であった。孝房の父宗孝と資忠は同世代であり、両者の間には父と子ほどの年齢差があった。これに加えて孝房の父宗孝はこの前後に死亡したと思われ、そのバックアップも期待できない。また、出雲国は知行国主藤原朝方のもとでその子朝経が国守を務めていたが、頼朝はその目代に御家人兵衞尉政綱を推薦し、この起用を実現していた。当時は杵築社本殿の造営中であり、こうした条件を考えて、光隆は孝房を惣検校から更迭し、推薦を受けた資忠に交代させたのであろう。資忠は惣検校在任中に二度も鎌倉を訪問するなど、頼朝との間に緊密な関係を持ちつつ、造営を進めたと思われる。

 

 

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