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2018年4月22日 (日)

杵築社本殿焼失と神主1

 文永七年正月に杵築社本殿が焼失し、仮殿ならびに正殿の造営が必要となる中、天福~文暦年間に杵築社神主に補任された出雲実(真)高の子実政が領家に請文を提出して神主に補任された。国造家では真高による造営が進まない中、文暦二年(一二三五)九月に義孝が神主に補任され、宝治二年(一二四八)の正殿遷宮を行った。この時期は寛喜元年(一二二九)頃に領家が公卿である藤原家隆から兄雅隆の子重隆に交代し、その重隆も公卿になる前の寛元三年(一二四五)に死亡したことで、領家の主体的権限の行使はみられなかった。そのため義孝はその後も引き続き神主の地位にあり、弘長二年(一二六二)一二月三日には国造と惣検校(神主)を嫡子泰孝に譲り、文永五年(一二六八)正月には国造泰孝が領家松殿兼嗣から神主に補任された。
 松殿兼嗣は延応元年(一二三九)に大納言である父松殿忠房と杵築社領家藤原重隆の娘の間に生まれ、弘長元年に二三才で従三位に除せられ公卿となったが非参議であり、参議に補任されたのは三一才である文永六年であった。参議補任も兼嗣が領家としての主体的権限行使を促した可能性が高い。そうした際に、出雲実政から請文が提出されたことで、兼嗣は国造泰孝に代えて実政を神主に起用した。この実政の動きは単独では無く、国衙目代高階氏定、在国司代長田政(昌)元らと結んだものであった。
 目代高階氏定は宝治二年の遷宮が一段し、知行国主が平有親からその子時継に交代し、そのもとで同姓の高階兼重が出雲守に補任された際に、目代に起用されたと考える。前任の源右衛門入道宝蓮も承久の乱後間もない時期から建長元年に遷宮の報告書を提出するまで目代を務めていた。在国司代長田政元は勝部宿祢一族の惣領である在国司朝山昌綱が文永四年に京都で死亡したことと、その子時綱が十分な年齢に達していなかったため、その補佐を行っていた。
 これに対して国造泰孝とその父義孝は幕府に働きかけ、神主への復帰を目指した。文永七年一一月一六日に神主について口入する関東御教書が領家に対して出されたのはそのためであったが、兼嗣は方針を変えなかった。ただ、実政に領家に対する不忠があったとして、過去に神主に補任されていた父実高を神主に起用した。そこで国造は国司・知行国主に働きかけ、国造義孝が所持する旧記に任せて造営を行うことを命じた院宣が出され、これを受けた国司庁宣が文永九年一二月に出された。そしてこれを目代に伝える一二月一七日国宣では、それに加えて、この上は国造義孝と相共に仮殿の造営と遷宮を遂げよとの命令を加えた。一方では国造義孝が目代氏定と在国司代政元の狼藉を訴え、これに対して文永九年四月には幕府が六波羅探題に調査を命じている。鰐淵寺もこれに呼応して目代と在国司が関東御下知と号して三月会の布施を減らしたことの撤回を求める申状を出雲国守護に提出している。

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