koewokiku(HPへ)

« 杵築社本殿焼失と神主3 | トップページ | 史料の保管元2 »

2018年4月22日 (日)

史料の保管元1

 なぜ、治暦三年の正遷宮史料以降のものしか残っていないことを含めて、表題の問題について確認したい。
 最初に建久二年七月日の在庁官人解とともに、造営史料からピックアップして写した「治暦・天永旧記」が作成された。国衙に保管されていたものから在庁官人が写して作成したとの意見もあろうが、すでに述べたように解状も国造側が作成し、在庁官人は署判を加えたのみであるように、旧記も国造側が作成した。保管元は国衙ではなく、杵築社政所である。遷宮直前に短期間ではあるが、国造孝房がひさし振りに神主に補任されたことにより、政所に保管されていた史料を閲覧することができたのである。旧記は最後に文治六年に勘宣旨が下されたことを記しており、この時期に作成されたものであった。ただし、内蔵資忠が中心として行った造営であるがために、建久元年の遷宮に至る史料は意図的に写さなかった。
 ではなぜ在庁官人は国造を支持したかといえば、本来内蔵氏は出雲宿祢の中で隠岐国衙を中心拠点とする一族で、隠岐守藤原資憲とその父日野実光、藤原光隆とその父清隆と結ぶことで、出雲国における勢力を拡大し、久安年間末には内蔵忠光が中心となって杵築社領の崇徳院への寄進を実現し、忠光が初代神主に補任されたのである。出雲国衙の有力在庁官人からすれば出し抜かれたとの思いはあったであろう。「内蔵」とは国衙の正倉の管理を行うことからきた苗字だと思われる。後に内蔵資忠の子孝元が国富郷地頭に補任されたのは国富郷司であったためであった。本領であるが故に、孝元解任後の地頭も内蔵氏であった。
 承久二年三月八日杵築社遷宮年限例注進状も、杵築社造営を求める声が強まる中、国衙が杵築社政所に対して報告を求めたことをうけて作成されたものである。原則として造営史料は国衙ではなく政所が保管していたのである。ではその政所の成立はいつかというと、治暦三年の遷宮時に出雲守藤原章俊により内遙勘が社領として寄進されたことを契機に杵築社は国衙財政の中で特別会計となり、独立性の高い政所が設けられたのである。旧記が康平五年以降しか記さないのは、前の部分が失われたからではない。
 この政所に対して国造は一宮である杵築社の祭祀を担当する職であり、政所には関わらない(ないしは政所の下に置かれたもの)。国造は意宇郡司から西遷してきたが、国衙機構が整備される中、その地位は低下していた。その一方で、出雲宿祢一族も勝部宿祢一族に次ぐ勢力を出雲国衙で占めていた。内蔵氏もその一族であった。治暦三年に政所が設けられ、造営も担当するので、関係史料は政所が保管するようになった。国造はその史料を所持してはいないのである。

« 杵築社本殿焼失と神主3 | トップページ | 史料の保管元2 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 史料の保管元1:

« 杵築社本殿焼失と神主3 | トップページ | 史料の保管元2 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ