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2018年4月11日 (水)

藤原親隆について1

 親隆は勧修寺流藤原為房の子であるが、摂津源氏源頼光の子頼圀女子を母とする為隆・顕隆・重隆・長隆といった兄に対して、法成寺執行を務めた法橋隆尊女子讃岐宣旨(藤原忠通乳母)を母とし、一才上の同母兄に出雲国知行国主をながらく務めた朝方の父朝隆がいる。四人の異母兄と朝隆・親隆の間には二〇才以上の年齢差があった。
 讃岐宣旨の兄弟には待賢門院の乳母を母とする行光や崇徳天皇の御願寺成勝寺に三ヶ所の所領を寄進し、その娘が摂関家の近臣藤原邦綱との間に子をなした増仁がいる。天皇家・摂関家との間に深いつながりを有していた。
 父為房が永久三年(一一一五)四月二日に死亡したことは、二人の昇進に影響した。朝隆が一七才であった天永四年(一一一三)に修理亮・蔵人、永久三年には左近将監となったのに対して、親隆が蔵人となったのは二六才となった保安四年(一一二三、摂政家勾当)であった。父の死が一年遅く生まれた親隆の人生に影を落とした。ただし、父の死は朝隆の昇進にもブレーキをかけ、両者が従五位上に除せられたのは大治五年(一一三〇)であった。
 朝隆はその後、長承三年に藤原忠実の娘泰子が鳥羽院に入内した際に、皇后宮大夫頼長のもとで皇后宮大進となり、永治二年に従四位上、久安元年に正四位下に除せられたのも高陽院御給であり、元永二年から保安元年にかけては高陽院の同母弟である忠通の家司であったことも確認出来る。康治二年には朝隆が信濃守を辞することで九才の嫡子朝方が淡路守に補任された。実質的には朝隆が知行国主であったと思われる。久安六年には近衛天皇の蔵人頭と中宮呈子(忠通養女)の中宮亮となり、仁平三年には参議に補任された。
 親隆も久安四年には「家司尾張守親隆朝臣」、久寿元年には「執事家司」とみえるように、頼長の家司を務めていた。長承四年に正五位下に除せられたのは待賢門院御給で、久安五年には近衛天皇の御願寺延勝寺供養日行事賞を鳥羽院から与えられて正四位下に除せられている。康治元年一二月一三日鳥羽院庁下文の署判者としてみえるように鳥羽院の近臣である。久寿二年七月二五日に近衛が死亡した後はその実質的後継者とされた二条の東宮亮となり、二条との関係を強めていた。保元の乱では崇徳・頼長方には参加せず、後白河方となってその政治生命を保ち、応保元年には参議に補任された。ただし親隆の嫡子為親が三〇才未満で死亡したため、その直系の子孫に公卿となるものはなかった。

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