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2018年4月11日 (水)

杵築社領の立券1

 ようやく最初の立券の関係者が、藤原実光とその子資憲と結びついた内蔵忠光であることが明確になってきた。それが保元の乱で一旦リセットされ、新たに藤原清隆とその子光隆と結びついた国造兼忠によって再立券がなされた。後者の時期は平治の乱で一旦失脚した光隆が治部卿に還任し(四月三日)、従三位公卿となった永暦元年である。前者については、藤原実光の出家(天養元年一〇月)ないしは死亡(久安三年五月)が下限となる。天養二年に実光の子資憲により意宇郡揖屋庄が成勝寺に寄進され、仁平二年には増仁により飯石郡飯石庄が寄進されているが、実光の問題を勘案すると天養二年の前後となる。
 資憲は保延四年に隠岐守に現任し、康治二年から天養元年末までは下野守であった。任期四年を待たずに辞任したと記されており(本朝世紀一二月三〇日)、揖屋庄立券のためではないか。仮に三年間下野守であったとすると、永治元年末に隠岐守から下野守に遷任したことになる。隠岐守が四年とすると、保延四~永治元年隠岐守、康治元年~天養元年下野守となる。
 父実光は天承元年一二月に参議に補任され公卿となり、長承二年二月には大宰府大弐、保延二年には権中納言とともに大宰権帥に昇進し、保延元年正月に帥を退任するとともに正三位に、翌年に従二位に進んだ。大宰大弐・権帥は地方官ではあるが、日宋貿易の関係で収入の多いポストだとされる。資憲の異母兄弟で年齢が近かったと思われる嫡子資長(実光と資長は国守にはなっていない)は元永二年(一一一九)の生まれであり、資憲はそれ以前の生まれであろう。
 資長は保延四年四月に中宮臨時御給により従五位下に除せられ、保延六年四月には中宮権大進に補任されている。崇徳天皇の中宮聖子を通じて、藤原忠通との関係を強めていたと思われる。石見守など国守を歴任しつつ摂関家領を立券した忠通の側近源季兼の娘を室としている。

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