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2018年3月31日 (土)

年未詳七月一三日院宣(鰐淵寺文書)

 これについては年次比定・発給者をめぐり見解が分かれている。再度検討してみる。
 従来は弘安四年の亀山上皇院宣とされてきたが、文永一一年説と後深草上皇院宣説が提示されている。奏者は従来「庄能」と読まれてきたが、近年の『松江市史』(二〇一三年)『出雲鰐淵寺文書』(二〇一五年)では「康能」と解読された。後者が正しく、藤原康能であることは問題がない。康能は文永八年三月八日に中将に進み、皇位が持明院統に移った翌年の弘安一一年二月一〇日には兵部卿に補任され、正応三年正月一九日には参議に進み、従三位に除せられた。翌四年正月六日には後深草院給により正三位に進んだ。六条宰相と呼ばれ、永仁三年に死亡している。持明院統のもとで昇進しており、亀山上皇よりも後深草上皇院宣である可能性が高い。ただし、年次は文永の役ではなく弘安の役に際してのものである。よって弘安四年の後深草上皇院宣であろう。
 そうなると問題となるのが、『松江市史』で西田友広氏が亀山上皇院宣で出雲国知行国主である侍従三位藤原家時に命令が出されているとして、弘安四年の七月三日までに出雲国が後深草上皇分国から亀山上皇分国に変化したとしたのである。本ブログでは侍従三位は藤原家時ではなく藤原能清で、その立場は漆治郷の領家だと考えた。弘安四年に分国主が交替したことは、本ブログでは同年三月に国造出雲義孝が杵築社遷宮に関する申状を提出していることから、知行国主が交替し、新任の人物に提出したと考えて、採用していた。明確なのは弘安年間に出雲国が後深草院の分国から亀山院の分国に変わったことである。
 そこで義孝申状をみると、遷宮注進状の最後には宝治二年に後嵯峨院・守時継のもとで、正殿遷宮が国造兼神主義孝により行われたことが述べられている。「弘安四年」と注記した①九月二一日出雲国司庁宣が残されており、その奏者は②弘安二年六月六日出雲国宣と同一人物であり、この時点では②に袖判を加えている平時継がなお知行国主であったと思われる。また、分国主の交替を示す長江郷は、文永年中には後深草院により祇園社に寄進され、分国主の交替をうけて弘安五年に亀山院により再寄進されている。ここからすると、分国主の交替は弘安五年とすべきである。ただし翌弘安六年(一二八三)三月二八日には持明院統系の平兼有が出雲守に補任されており、亀山院分国は一年で終了し、出雲国は再び持明院統の分国となったと思われる。正安三年一〇月四日の院宣は従来言われていた後宇多ではなく『出雲鰐淵寺文書』で示されたように伏見院によるものである。次に変化するのは文保二年の後醍醐天皇即位で、これ以降は大覚寺統系の人物が知行国主としてみえる。
 本題について再確認すると、弘安四年七月一三日に分国主である持明院統の後深草上皇から院宣が出され、出雲国衙に対して実検など漆治郷への妨げを停止させ、異国降伏祈祷を日吉社で行うように命令が出されたのである。見解が二転・三転した気がするが、これが最終結論である。その意味で亀山院宣とする『松江市史』、年次を明記せずに文永一一年前後の場所に院宣を配置した『出雲鰐淵寺文書』(後述のように、『出雲鰐淵寺旧蔵・関係文書』の文書目録では微妙な扱い)の見解は修正すべきと考える。
 退職後の四月一日以降のアップは330本である。約一ヶ月は部屋の整理に追われほとんど更新できなかったが、なんとか種切れにならずに続けている。とりあえず一〇月でブログ開設一〇周年となるのでそこまでは続けたい。

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