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2018年3月 8日 (木)

隠岐守藤原惟頼と重頼

 すでにみたように、保元二年正月二四日に隠岐守に補任された源雅範までは美福門院の分国として関係者が隠岐守に補任されていた。それが院が永暦元年一一月(一一六〇)二三日に死亡したことにより、後白河院とその寵愛を受けた建春門院の関係者が隠岐守に起用されるようになった。その建春門院も安元二年(一一七六)七月八日に死亡し、それ以降は後白河院の関係者が隠岐守となった。
 藤原惟頼が隠岐守となったのは建春門院が死亡する半年前であった。惟頼は隠岐守補任以前に佐渡守と丹波国の国司に補任されており、佐渡守は従兄弟である藤原重頼の後任であった。すなわち重頼は永万元年末に日向守から佐渡守に遷任し、承安二年(一一七二)二月一〇日の時点でも佐渡守であった。これに対して惟頼は承安四年正月二一日に佐渡守に補任されている。重頼の父重方と惟頼の父頼佐は兄弟で、その父は顕能であった。
 重頼の経歴は美福門院の養子となった二条天皇とのかかわりが深い(中村文「藤原重頼をめぐって」(埼玉学園大学紀要・人間学部篇16、2016年)。後白河は二条の父として形ばかりの即位を行ったが、二条が早世したため、建春門院が生んだ高倉を天皇として院政を行った。
 惟頼は平清盛の娘盛子と結婚した摂政藤原基実が死亡した直後の仁安元年(一一六六)八月二七日に丹波守に補任され、一一月一四日には従五位上に叙されている(史料大成本は雅頼とするが、史料総覧稿本による)。仁安三年八月二七日の時点では丹波前司とみえ、後白河上皇女宮の家司に任ぜられているように、後白河院との関係がうかがわれる。仁安二年五月一九日には相模と丹波が相博されており、相模守藤原盛頼が丹波守に遷任している。惟頼の丹波守の前任藤原盛隆と藤原盛頼の後任の相模守藤原有隆はともに院近臣顕時の子であることから、五味文彦氏は惟頼が国司に補任された丹波国は相模国とともに藤原顕時の知行国であったと推定している。顕時は因幡守在任中に死亡した藤原長隆の子で、二条天皇と深い関わりを持ったが、その死後は後白河のもとで出世し、権中納言に進んだ。
 藤原盛頼は家成の子で後白河院の近臣成親や西光の弟である。盛頼の後任の丹波守は成親の子成経であるため、この時期には成親が丹波国知行国主であった。盛頼が成親・西光等が首謀者であった鹿ヶ谷の陰謀により失脚したため、その娘は母方の祖父俊成の養女となった(八条院三条)。
 安元二年(一一七六)正月三〇日に隠岐守に補任されていた惟頼も後白河院との関係を持つ人物であった。治承三年(一一七九)一〇月二五日の時点でも隠岐守現任が確認できる。同年一一月一四日の平家によるクーデターや寿永二年一一月の義仲のクーデターで解官された可能性はあるが、まもなく復活したと思われる。この惟頼の後任として後白河院が送り込んだのが源仲国であった。
 仲国も高倉院の腹心として小督の探索にあたっているが、治承二年六月二七日には惟頼の従兄弟である藤原重頼邸で小督が生んだ範子内親王が賀茂斎院に卜定されている。重頼は源頼政の子等と行動をともにし、鎌倉の頼朝のもとに赴いてその家臣として活動している。そうした中で従兄弟である隠岐守惟頼と結んで平家没官領・謀反人跡の地頭となったのだろう。 

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