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2018年3月12日 (月)

鎌倉初期の因幡国司

 大江広元の因幡守補任は元暦元年九月一八日であり、その時点で知行国主が源通親であったことはすでに述べたとおりである。翌年正月に源義経が殿上人として院内に出仕した際に大井実春が大江広元の因幡国目代として飯垸を勤めた。守護という名称が使われたかどうかの問題はあるが、広元が少なからず平家方の武士がいた因幡国に幕府方として派遣され、現地でその実務を担ったのが大井実春であった。
 広元は文治元年六月二九日に因幡守を辞任し、半年後の一二月二九日に通親の子堀川通具が因幡守に補任され、建久元年正月の重任、同五年正月の延任をへて翌六年二月二日に辞任した。後任はこれも通親の子中院通方で、建仁元年一二月二二日に止任となっった。この間の知行国主は通親であろう。通方の後任の因幡守の名前は不明だが、通方本人は翌建仁二年四月一五日には伊予守に遷任している。伊予国では文治元年一二月二七日に九条兼実が知行国主となりその関係者が国守であったが、建久七年一一月には兼実が関白を罷免され失脚しており、伊予国知行国主の交替も時間の問題ではなかったか。翌建久八年六月一一日には源通具が伊予守に補任されており、父通親が知行国主の地位を得たと思われる。通親は建仁二年一〇月二一日に死亡しており、これに伴い知行国主には後鳥羽側近の藤原宗行が補任された。正治二年三月六日補任の源宗雅、建仁二年四月一五日補任の伊予守某の時点の知行国主も通親であろう。
 因幡国知行国主も通親の死により交替したはずである。建仁三年正月一八日に藤原宗嗣が因幡守に補任されている。宗行の兄弟宗方の子であるが、宗行の養子となっていた。知行国主は宗行であろう。その後、宗行は承元二年(1208)八月には伯耆国知行国主に転じているが、その後任は不明である。建保三年(1215)六月一四日には通親の子久我通光が因幡国知行国主であった。通光は通親の三男であるが母が後鳥羽院乳母藤原範子で、異父姉が土御門天皇の母となったため、嫡子として扱われた。承久の乱の影響を受けることなく嘉禄二年八月二九日の時点でも知行国主であった。伯耆国で言及した『吾妻鏡』建保六年六月二七日条にみえる「前因幡守源師憲」は通光知行国下の因幡守であろう。

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