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2018年3月27日 (火)

建久元年の正殿遷宮と神主1

 出雲守に補任された藤原能盛の在任期間と藤原朝経の死亡時期が判明したので、これに基づき、建久元年の遷宮に至る過程を明らかにする。
 久安元年遷宮の正殿が顛倒し、仮殿遷宮が行われた時期について、弘安四年三月日国造義孝申状は、承安二年一〇月一〇日顛倒、安元元年一一月一九日仮殿遷宮とし、井上寛司氏もこれを採用されているが(『日本中世国家と諸国一宮制』)、これが事実ではないことは何度か述べてきた。承久二年三月八日杵築社政所注進状が記すように久安元年の正殿遷宮から三四年目に仮殿遷宮が行われたというのが正解である。ただし、注進状には混乱がみられ、34年目=治承二年とすべきところを承安元年と記していた。一方、千家文書に残る安元二年一〇月日出雲国司庁宣では、義孝申状で安元元年に神主として仮殿遷宮を行ったはずの宗孝が翌二年に国造に復帰すると記しており、矛盾している。国司庁宣もまた後に作成された偽文書であるが、義孝申状とは異なる時期作成されたためであろう。
 この間の出雲国司は、知行国主藤原朝方、出雲守はその子朝経という体制であったが、承安4年正月の除目で後白河が自らの側近藤原能盛を出雲守に起用したため、朝方・朝経は石見国司とならざるを得なかった。それが、三年経った治承元年の除目で後白河院が出雲国に代えて周防国を分国として近臣藤原季能を起用したため、朝方・朝経父子が出雲国司に返り咲いた。ただし、半年後に周防守に藤原能盛が起用された。
 朝方・朝経の復帰後、杵築社の顛倒が発生し、翌治承二年一一月一九日に仮殿遷宮が行われ、次いで正殿造営が開始された。この時点の神主は国造宗孝であったが、文治元年にはその子孝房に交替した。造営の進行状況は、飢饉・戦乱・政変もあり十分ではなかった。これに対して文治二年五月二日に頼朝の推薦をバックに神主に補任されたのが内蔵資忠であった。頼朝は上西門院の蔵人となり、待賢門院系の人々とパイプを持っていた。薗山庄を支配する吉田経房宛の推薦状を薗山前司師兼の依頼を受けて与えていた。杵築社領家藤原光隆もまた父清隆が待賢門院別当であり、待賢門院系とのつながりを持っていた。そのため、頼朝は自らが伊豆に配流されていた時期に大功のあった内蔵資忠を推薦した。資忠の父忠光もまた、待賢門院の子崇徳の側近であり、隠岐守を務めた藤原資憲とその父日野実光の関係を有し、一度は杵築社領の庄園としての立券を行った。成功したかにみえたその試みは保元の乱で崇徳が敗北したため、庄園は一旦は公領に戻されたと思われる。

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