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2018年3月29日 (木)

杵築大社領の本家と領家11

 宗子は正安四年には次子邦省親王を産んだが、その後間もなく亡くなったのではないか。そのため、その子は宗尊親王の遺児瑞子女王のもとで育てられることになった。翌年には院号を与えられ永嘉門院となるが、一方では正安三年には父宗尊親王が相続者となっていた室町院領の半分を相続することが一旦は認められた。ところが永嘉門院が後宇多の後宮に入ったことで、室町院領の四分三が大覚寺統分となることに不満を持った持明院統の伏見上皇が幕府に訴え、結果として永嘉門院の相続は無効とされ、室町院領は両統で折中された。
 後二条天皇の死(一三〇八)により持明院統の花園天皇が即位したが、文保二年(一三一八)には皇位は大覚寺統に戻り、後二条の弟後醍醐が即位し、後二条の子邦良親王が皇太子となった。こうした中、邦良親王を養育していた永嘉門院が元亨四年に室町院領問題について幕府に越訴を行った。幕府は正安三年の当初の裁定が正しかったとしてその主張を認めたが、現実には両統で二〇年以上折中してきたとして、妥協策として正安三年の永嘉門院分の半分(室町院領の八分一)を永嘉門院分とする裁定を下した。大覚寺統はこの裁定に従うとしたが、持明院統ではこれではやはり大覚寺統に有利だとして、幕府に使者を派遣した。その後、幕府法廷で書面による四問四答が行われたが、幕府は最終的には永嘉門院の越訴を棄却した。
 幕府を批判する持明院統側が、昨年=元亨三年にも永嘉門院に所領を返したのに、更に、室町院領を分けて返すのは不審であると主張した。この中に永嘉門院を養育した承明門院の所領であった杵築社領が含まれていたと考えられる。返したのは大覚寺統である。邦良親王の末裔である柳原宮が応永三〇年に提出した申状でも、元亨三年七月二七日の後醍醐天皇綸旨により杵築社領を安堵されたことが記されている。永嘉門院は元徳元年に五八才で死亡し、皇太子邦良はそれに先立ち正中三年に死亡していた。弟邦省親王がいたが、後醍醐天皇が元弘の変で逮捕され隠岐に配流された際には持明院統の光厳天皇が即位した。
 以上、出雲実政に関する二通の史料から、鎌倉後期の杵築大社領の本家と領家がどのように動いたかを見てきた。嘉元四年までに松殿兼嗣が領家に復帰すると、実政の関係者である孝助が領家雑掌に起用された。実政自身については明らかではないが、過去の領家への不忠もあり、領家がその一族孝助を起用したと思われる。延慶二年には国造孝時が雑掌孝助による所領押領を幕府に訴え、再び裁判が開始された。正和三年八月二七日には国造が過去に神主に補任されたことが認められたが、その後も杵築社領をめぐる領家雑掌と国造の裁判は続いて行った。従来の杵築社領の研究は関係史料の年次比定と内容の分析が不十分なままなされたものであり、訂正される必要がある。

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