koewokiku(HPへ)

« 稲積庄領家定頼卿について | トップページ | 建久元年の正殿遷宮と神主1 »

2018年3月27日 (火)

石見部の山間部

 山城の遠景写真を取る必要があり、ドライブをしたが、島根県の歴史散歩の第2版を執筆するために回った時よりも一段と過疎化が進んでいるように感じた。前回は1994~95年だった。現在の第3版では現松江市全域を執筆したが、第2版では石見部の美濃郡・鹿足郡・那賀郡・邑智郡を担当した。第1版には関わっていないが、4郡については当然採り上げるべきだが、諸般の理由で原稿が欠落している箇所がかなりあった。2版では現地を訪れ総て掲載した。交通手段の確認ということで、バス停を確認するが、すでにバスが運行していない箇所も珍しくはなかった。
 高津城を撮影するため、益田市の柿本神社を訪れた。高津城の主要部分に神社がある。境内を回ってみたが、高津城に関する掲示は全く無かった。戦前は高津小学校の校歌にも高津長幸が歌われていた。現在の校歌はHPでも確認できなかったが、426人の生徒が在籍しているようだ。果たして何人が知っているのだろうか。戦前には高津道性長幸とされた人物は道性とその子と思われる長幸という二人の人物であった。道性が長門探題攻撃の中心となり、建武政権下では石見国守護に補任された。建武3年の南北朝動乱開始時の幕府方国人の軍忠状では高津城に守護代を攻撃したとあり、何故高津城に守護代がいたのか想像ができなかったが、ようやく理解ができた。道性は間もなく死亡したようで、その子長幸の時代となったが、守護の後任は周布兼宗であった。また、鎌倉時代の石見国守護は東部の安濃郡にいたこともわかってきた。
 神社訪問も四半世紀ぶりだったがまったく記憶がよみがえらないため、帰宅後第2版を開いてみるが、思い出したのは1km離れた連理の松の写真を撮ったことぐらいか。とりあえず、次の目的地である浜田市旭町今市にある家古屋城へ向かう。今回は島根の城館の当該部分を印刷・携帯したのみで、道路地図がなかったため、とりあえず浜田から186号経由で行こうと思ったが、山陰道の相生出口を通りすぎてしまったため、下府から跡市方面へ向かった。たよりとするのはナビのみである。一直線に目標地点とはならず、回り道となったが、なんとか5号線に出て、そこから今市に着いた。
 家古屋城は南北朝期の福屋氏の本拠とした城で、これも幕府方によって攻撃されている。第2版では言及もされていない。史跡と天然記念物の県指定以上のものを収録する方針から洩れていたためであろう。福屋という苗字が何に起因するのかも当時は不明であったが、現在では福屋氏初代兼広が最初の拠点とした邑智郡日和郷内の福屋によることがわかった。その後、兄益田兼季の死亡により所領の配分が行われ、新たに得た那賀郡阿部郷に拠点を移した。阿部郷は兼季が二代将軍頼家に安堵を求めた申状に記されていたはずであるが、現在残る文書はその部分が空欄となり、国方15箇所の安堵を求めたのに実際は14箇所しか記されていない。
 遠景を撮影するといってもどの方向からのがよいのかは微妙である。一番高い平坦部分ではなく、やや離れた2番目に高い平坦部分が主郭と述べているものあるが、自分自身では判断がつかない。昨年12月に稲積城、三隅城、洞明寺山城、二つ山城、藤掛城、赤穴城を撮影したが、その時に洩れたのが2城であった。問題は、今市からどの経路で帰るかであるが、ままよと桜江町市山を経由してなんとか261号に出たが、思ったよりも遠かった。そこから江津へ引き返すのも遠回りなので、大家・三原方面の道に入ったが、すぐに車が一台しか通れない細道となった。ほとんどすれちがうことはなかったが、夜なら土地勘がないとやばそうな感じであった。たまに人家があり、高齢の女性と男性の姿を横目にみながら北佐木に出たところで、大家方面ではなく無難な温泉津方面に進んだ。こちらの道は2車線であった。たまにバス停があったが、例外なく市町村が運営するものである。なんとか日没前に福光で9号線に出て、そこから松江に帰った。残るは大原・仁多郡と能義郡。

« 稲積庄領家定頼卿について | トップページ | 建久元年の正殿遷宮と神主1 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 石見部の山間部:

« 稲積庄領家定頼卿について | トップページ | 建久元年の正殿遷宮と神主1 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ