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2018年3月19日 (月)

来海庄と大原庄の庄園領主1

 来海庄と大原庄は安元二年(一一七六)二月日八条院領目録と嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院御領目録にみえる。前者は前欠があるが、来海が歓喜光院領、大原庄が庁分領という点では後者とも共通している。八条院領は母美福門院領が子八条院に譲られたものが中核となっている。歓喜光院は美福門院の御願寺として永治元年(一一四一)2月21日に創建、そこに寄進された所領が歓喜光院領である。一方で美福門院庁の所領も大量に寄進された。大原庄は文永八年(一二七一)杵築大社三月会結番帳にみえる大東庄と同一のものであろう。
 来海庄と大原庄も一二世紀半ばの成立であろう。そこで意味を持ったのが、一一四〇年代半ばから院が死亡する永暦元年(一一六〇)の時期の隠岐国守が美福門院関係者で占められていたことである。それ以前に、崇徳院の側近藤原資憲が隠岐国司を務める中、院の御願寺である成勝寺に所領が寄進されたのも同じ図式である。
 来海庄の領家に関する史料はないが、大原庄については嘉元四年の目録に領家として「京極三位」がみえる。一三世紀前半には島根郡末次保を東福寺に寄進した摂関家家司藤原長倫が「京極三位」と呼ばれている。平安京の京極の地に屋敷があったためであろう。一四世紀半ばに「京極三位」と呼ばれている藤原家倫は長倫の曾孫である。長倫には後継者となりうる男子がなかったため、同じ藤原明衡に始まる学者の一流から光兼と基長という二人の養子を迎えている。それ以外にも所領末次保については長倫の前譲状を帯しているとして五辻三位(忠継)が訴えたが、朝廷は文永五年(一二六八)五月一四日にその主張に謂われがないわけではないとして光兼の子兼倫(従四位下、四二才)の知行を停止し、忠継に宝治本家下文に任せて相伝することを命じている。勝訴した忠継は生年・年齢が不詳だが経歴をその子と比較すると承久年間頃の生まれであろう。同年一〇月五日には出家しているが、一方で同年には後醍醐の母忠子が誕生している。

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