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2018年3月 8日 (木)

出雲守藤原能盛の在任期間1

 能盛は承安四年(1174)正月二一日に出雲守に補任されたことは確認できるが、問題はいつまで出雲守であったかである。安元二年(1176)四月二七日時点の現任については問題ないが、同年一〇月日出雲国司庁宣については、後に作成されたもので、その扱いには注意が必要である。
 この問題を考える材料としては、能盛に押し出される形で石見守に補任された藤原朝定の動向がある。承安四年正月二二日に石見守に補任されている某が朝定であることは問題がない。
重任 宣旨、出雲守朝定、大社修造未其功、件国去年秩満也、可載除目歟、然而得替年宣下有例之由隆職称之(治承五年三月六日、雲州重任申文=解に対するもの、『吉記』)
 藤原季能は嘉応元年(1169)一二月三〇日~治承元年(1177)正月二八日まで遠江国守でここから周防守に遷任。安元元年(1175)九月一八日から治承三年(1179)正月六日まで、知行国主として父藤原俊盛の現任が確認できる。同日に現任が確認でき、養和元年三月二九日にも補任(重任ヵ)されている藤原盛実も、俊盛の子であり、遠江国が俊盛の知行国である状態は続いていた。これに対して季能は新たに周防守に補任された。周防国知行国主は父俊盛ではなく後白河院であった。周防守の前任は安元元年(1175)九月一三日以降に現任が確認できる源有房であるが、父師行は美福門院との関係(従兄弟)で鳥羽院政で登用されたが、有房は平治の乱で藤原信頼方となり一時的に解任された後に復活したものである。父師行はすでに亡くなっており、本人も四〇代半ばであるので、院分国や知行国ではなかったと思われる。それが季能を起用した時点で後白河の院分国とされたのだろう。

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