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2018年3月 8日 (木)

出雲守藤原能盛の在任期間2

 季能は同年六月二八日にはこれも後白河院分国とされた讃岐国の国守となった。讃岐国は安元二年七月八日に建春門院が死亡するまではその院分国であった。その死後の讃岐国の扱いや国守については不明である。これに対して周防国の扱いであるが、国守となった藤原能盛が後白河院の近臣で、治承三年一一月一七日に平家のクーデターにより解官されていることからして、院分国は継続していたであろう。前任の出雲国はながらく藤原朝方の知行国であり、その子が国守であったが、何故かこれを院分国として能盛を出雲守に補任したのであろう。能盛は治承元年正月二八日に出雲守を退任し、半年後に讃岐守に遷任した季能の跡を受けて周防守に補任されたと考えられる。そしてこれを受けて石見守であった藤原朝定が出雲守に復帰し、父朝方が出雲国知行国主の地位を取り戻した。次いで治承四年末に任期四年が終了したが、杵築社造営が終了しないとして、翌五年三月六日に重任宣旨を得ている。月二八日に出雲守から周防守に遷任したと考えられる。そしてこれを受けて石見守であった藤原朝定が出雲守に復帰し、父朝方が出雲国知行国主の地位を取り戻した。石見国についても承安元年(1171)一二月八日に藤原有定が国守に補任されており、藤原朝定が出雲守に遷任した後の治承二年八月二四日には藤原致頼の現任が確認できる。ただし、致頼は治承三年正月六日と寿永元年八月一日に現任している能頼と同一人物であろう。この時点の知行国主藤原光雅は能頼の姉妹を妻としている。能頼の前任の有定は能頼の従兄弟であり、承安元年から寿永元年までの石見国は光雅の知行国であった。
以上を整理すると以下のようになる。(治承元年正月を当初の記載から修正した)
                   出雲守(分国主)   石見守(分国主)  周防守(分国主)
承安四年1174正月二一日~ 藤原能盛(後白河) 藤原朝定(父朝方) 源有房ヵ(無ヵ)
治承元年1177正月二八日~ 藤原朝定(父朝方) 藤原能頼ヵ(光雅) 藤原季能(後白河)
治承元年1177六月二八日~ 藤原朝定(父朝方) 藤原能頼ヵ(光雅) 藤原能盛(後白河)
                    養和元年重任    寿永元年現任    治承三年解官
                    寿永二年死亡

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