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2018年3月 1日 (木)

鎌倉末期の石見国司

  堀川光世以降の石見国司であるが、徳治三年(一三〇八)、元亨四年(一三二四)の文書が残っている小山石見守関係文書の扱いに苦慮している。阿波国勝浦新庄などの預所肥後守経家が、海賊の出入りに関する幕府と六波羅の文書を拝見し、これを触れ申すことを小山石見守に約束しているが、具体的人物の比定はできず、石見守がどのような立場の人かも不明である。石見守については他の史料との整合性に問題がある。徳治三年はともかく、元亨四年の石見守は後述の四条隆持である。
 延慶三年(一三一〇)一〇月三日に丹波黒田宮祢宜職を補任している預所石見守吉綱も同様であるが、元応元年一一月一八日に播磨国大山寺鎮守権現に四季八講料田一所を寄進している地頭御代官吉綱との関係が問題となる。預所吉綱の花押は未確認なので現段階では断定はできない。国司を務めた人物が公卿が地頭である所領の代官となることは幕末ではそう珍しいことではない。」
 応長元年(一三一一)三月一九日に大江景繁の石見守現任が確認できる。景繁の一族は修理職年預となるとともに、西園寺家家司として活動している。景繁は永仁六年(一二九八)八月五日には左衛門尉大江景繁とみえ、元弘元年一〇月一七日には下北面とみえるように北面的要素も持っていた。公衡は応長元年八月二〇日に出家したが、死亡する正和四年迄は活動が確認できる。知行国主公衡のもとで景繁が国守であった可能性が高い。
 文保二年に比定される一二月二日前石見守□氏奉書があるが、未見で文書の性格・内容は不明なので、とりあえずあげておく。
 元亨三(一三二三)年から元徳二年(一三三〇)二月六日まで石見守であったのが四条隆持である。文保元年(一三一七)の生まれなので石見守に補任された時点では七才であり、知行国主は父隆有(一二九二~一三二九)であろう。隆有は隆政と高辻長成女子の間に生まれた。女子の兄弟清長の子長躬は出雲守であった。隆有は文保元年二月に従三位参議に進み公卿となったが、翌二年一〇月六日に参議を辞職した。元応二年(一三二〇)二月九日には正三位となったが、文保二年三月の即位新院給とあるように、後醍醐の即位により後宇多から与えられたものであった。
 嘉暦元年六月一八日に備前国長田庄本家職を寄進した前石見守繁成がいるが、四条隆持以前の石見守であろう。また、延元二年の陸奥国宣の奏者としてみえる前石見守についても不明である。

 

 

堀川光世   ~一三〇一以前   堀川光泰ヵ

 

小山経幸ヵ    ~一三〇八~   不明

 

某吉綱      ~一三一〇~   不明

 

大江景繁   一三一一~     西園寺公衡ヵ

 

某繁成     不明        不明

 

四条隆持   一三二三~一三二九  四条隆有

 

四条隆持   一三二九~一三三〇  大覚寺統系ヵ

 

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