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2018年3月27日 (火)

建久元年の正殿遷宮と神主2

 こうした中、永暦年間には後白河の近臣で、出雲守として知行国主清隆のもとで久安の正殿遷宮を行った光隆を領家、後白河を本家として杵築大社領の再立券が行われた。ただし、平治元年に藤原信頼との関係により解任された光隆が永暦元年に復帰できたのは美福門院との関係によると思われる。その死により光隆は後白河の近臣となった。この時点では内蔵忠光に代わって国造兼忠が中心であり、国造家が神主職に補任された。それが鎌倉幕府成立により忠光の子資忠が国造のライバルとして登場した。当時。資忠は隠岐国在庁官人でもあったが、隠岐守は後白河院の側近であり、院とのパイプも有していた。ところが隠岐国では隠岐守藤原惟頼の従兄弟で幕府の有力御家人となっていた藤原宮内大輔重頼が平家没官領の地頭に補任され、大きな影響力を持つようになった。重頼が地頭となった所領には平家没官領に該当しないものが含まれており、その訴えを受けた後白河は隠岐守藤原惟頼を更迭し、側近の源仲家に交替させた。
 文治五年四月に、奥州の源義経と結んでいることを理由として知行国主朝方と出雲守朝経の解任を求め、一三日に実現させた源頼朝が、朝方の目代兵衞尉政綱の幕府への引き渡しが四月五日に終わったことを知った途端に二一日付書状で、政綱以外の目代を起用して朝方・朝経父子の復帰を要請し、閏四月二八日には両者の還仁が実現している。その書状の中で頼朝が、解任を不憫に思っていた(自分が要求したにもかかわらず)上に、杵築社の遷宮を受け取られないのも不憫だと述べているが、正殿造営は頼朝が推薦した資忠が行っており、頼朝も援助を行っていたと思われる。資忠は文治五年六月一五日に頼朝から馬を与えられ、出雲国に戻ったが、遷宮が迫った文治六年(建久元年)正月にも鎌倉を訪れている。この時点では朝廷から一条能保を通じて、資忠を神主から解任すべきであるとの要求が伝えられたのに対して、頼朝は資忠を出雲国に帰らせるとともに、神主の補任は領家の問題であり、自分が口を出す問題ではないと返答した。
 朝廷並びに国造側は遷宮を絶好の機会として神主の交代を求めたのだろう。遷宮時に御神体を奉懐する国造が神主を務めるのが前例だと述べたのだろう。本来なら交替時期は正月だろうが、今回は頼朝と領家側が譲歩して、一旦は国造孝房が神主に返り咲いたが、年末に請文提出者から神主を選ぶ際には、遷宮が終了したため、領家が再び資忠を神主に補任したため、建久二年七月に国造孝房が国衙在庁官人を巻き込んで解状を提出した。しかし結果は変わらず、領家は資忠を神主に補任した。
 これが承元2年に資忠が死亡し、京都で生活していた子の孝元は経験が不足したため、幕府が領家に対して新たに権検校の設置を要請し、惣検校が国造孝綱(孝房子)、権検校孝元という体制となったと思われる。

 

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