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2018年3月19日 (月)

来海庄と大原庄の庄園領主2

 ただし、長倫の養子となった光兼については系図には長倫の父光輔の従兄弟大学頭安成の子とするが、公卿補任は大学頭藤原成信子とする。後者を前提とすると、成信の系譜上の位置づけは未確認だが、その活動が活動できるのは建暦二年までであり、九条道家の父良経(一二〇六年没)の歌会の常連であった(蔭木英雄「中世初期縉紳漢文学概観-菅原為長をてがかりに-」、『相愛大学相愛女子短期大学研究論集.国文・家政学科編』三一、一九八四)。長倫は九条家家司であり、同じ学問の家として養子に迎えたのだろう。また家倫の父兼倫が三位であったのは弘安一一年から永仁二年(従二位に)までであり、永仁四年に正二位に進んだ後、正安元年(一二九九)に七三才で死亡しており、厳密には嘉元四年時点の「京極三位」は確認できない。正確には「京極三位跡」である。家倫も兼倫六七才と晩年の子で従三位に除されたのは康永二年である。家倫には猶子敦継もいるが、これも従三位に除せられたのは延慶三年(一三一〇)である。
 前述のように長倫は九条家家司であり、藤原式家としては藤原純友の乱平定に関わった忠文以来二八五年ぶりの公卿であった。そして養子光兼-兼倫-家倫の三代は二位に進み、大原庄領家に比定した兼倫は太政大臣三条公房の孫娘(実平女子)を室とし、その間に生まれたのが家倫であった。光兼は寛元元年に東宮学士(後深草)となり、兼倫もまた建治元年に東宮学士(伏見)となっている。当時の大原庄は安嘉門院領であり、こうしたことをきっかけとして大原庄領家職を獲得したのではないか。
 これに対して来海庄については史料を欠くが、庄内に永嘉門院に養育された邦良親王の子邦世親王に始まる柳原宮(土御門宮)に関する記録・伝承が残っている(赤坂恒明「柳原宮考-大覚寺統の土御門宮家-」、『ぶい&ぶい』二七、二〇一四)。その一つ明応五年九月一五日弘長寺文書目録には「譲状 至徳弐年乙丑卯月日御判有之 佐々木三河守殿ニ参、至徳二年三月廿七日土御門之御奉行在判」とあり、前文書との関係は不明だが、後文書は至徳二年時点で土御門宮が来海庄の本家ないしは領家の地位にあったことを示すものであろう。

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