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2018年3月24日 (土)

稲積庄領家定頼卿について

 承久の乱後間もない時期の宣陽門院領目録に庁分として伯耆国稲積庄がみえ、そこに「定頼卿」の注記がみえる。領家を示すと思われるが、この時期に該当するのは二条定輔だとして、『鳥取県史』の編者は「輔ヵ」と推定している。問題はこの注記がどの時点で付けられ、いつの時点の「定頼卿」かである。すでに述べたように宇多川東庄は親範領であったのが娘の子である吉田資経に譲られていた。稲積庄は親範から娘婿経房を経て、経房孫娘の婿葉室光親に譲られていたが、光親は承久の乱への関与で処刑されてしまった。
 貞応元年一一月二五日に後堀河院のもとで行われた清暑堂御神楽の比巴の奏者として「前帥 前権大納言定頼」がみえている。建保二年六月二九日に前権大納言二条定輔は大宰権帥に補任されており(承久三年一二月一〇日去任)、これは定輔(楽器の名手であり、出雲国知行国主であった)の間違いであろう。定輔が承久の乱後「定頼」と改名した可能性も探ったが、死亡する嘉禄三年七月九日の時点でも定輔である。元は親輔であったのを定輔と改名したとする。二条定輔と以前の領家であった葉室光親の間には婚姻関係など確認出来ない(定輔の子の母はすべて不明)。さらに賀茂社領伯耆国稲積庄と宣陽門院領伯耆国稲積庄との関係も不明である。賀茂社領の方は寿永三年と応永二三年にその存在が確認出来る。
 一方、応永一四年三月作成の長講堂領目録には庁分として稲積庄、久永御厨、矢送庄がみえ、稲積・矢送庄の領家は葉室入道大納言家=宗顕である。光親は光頼の子光雅を祖とする堀川流の二代目であるが、宗頼は光雅の同母弟で、その孫資頼(宗方の子)と光親の娘との間に季頼が生まれている。宗顕は季頼の曾孫長隆の孫である。宗頼には養子宗行(藤原行隆の子)もいたが、光親と同様、承久の乱の後鳥羽方側近ということで斬られている。
 謎は深まるばかりであるが、稲積庄領家は親範→経房→光親→光親女子→季頼→頼親→頼藤→長隆→長顕→宗顕という経路をだどって継承されたと思われ、宣陽門院領目録中の「定頼卿」については不明である。関係者(承久の乱で没落)で公卿となっている人がいないのである。『鳥取県史』の比定にも一理はあるが、新たな疑問が生じてしまう。
 応永二〇年に武家に写し遣わしたとの注記のある長講堂所領目録には、伯耆国では久永御厨(此内由良郷)のみみえ、その下に「相国寺」との記載がある。他の所領にも天竜寺などの有力寺院や(各国の)守護と記されており、これは長講堂領の半済の状況を示しているのだろう。
(補足)定頼卿に該当する人物として建長三年正月二二日に従三位に除せられ、同年に死亡した藤原定頼がいる。これが当該人物とすると注記は建長三年に付されたことになる。末次庄領家藤原長兼の甥である長宗の子だが、同族の葉室資頼の養子となり、延応元年八月二九日には備後守に補任されている。次いで寛元三年一一月二二日から宝治元年三月一六日まで和泉国知行国主をつとめ、次いで伯耆国に遷任した。定頼の死により、資頼の養子となった頼親(季頼子)が定頼跡を継承し、稲積庄を継承した可能性が高い。

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