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2018年3月23日 (金)

出雲守藤原清長

 「鎌倉前期の出雲国司1」で清長について系図の記載のみで時期の特定に難があるとしたが、一応藤原朝経と藤原家時の間に入れておいた。藤原朝方の子朝経と朝方の室の甥家時であり、その時の知行国主は朝方であったと思われる。朝方は建仁元年二月一五日に出家し、翌日死亡した。六七才であった。三月一一日に葉室宗頼の養子となっていた藤原顕俊が出雲守となった。朝方の死に伴う交替であった。
 清長は吉田経房の弟定長と、平清盛との関係で仁安元年(一一六六)から嘉応元年(一一六九)に安芸守現任が確認出来る藤原能盛の子であるが、出雲国では朝方の子朝時の国守現任が確認できる仁安二年一〇月一九日以降、建仁元年二月の死まで、一時期を除き朝方が知行国主であった。一時期とは院分国下で能盛(安芸守とは別人で、この後院分国下で周防守も務める)が国守であった承安四年正月から次庄元年六月までと、義仲のクーデターによる寿永二年一一月から元暦元年九月まで、朝方が義経への与同を疑われた文治五年四月から閏四月までである。
 『公卿補任』で清長の経歴をみると、寿永二年八月一六日河内守(一三才)、元暦元年淡路守、文治元年河内守、同三年正月五日従五位上、同五年兼勘解由次官(一九才)とあり、上記の三時期に出雲守に補任されることは不可能である。とすると朝方が知行国主であった時期となる。朝方の子朝経は文治五年閏四月一八日に知行国主朝方とともに出雲守に還任したが、いつまで出雲守であったのであろうか。
 朝経は公卿になる前に死亡し、系図でもその没年は記載がないが、『公卿補任』の清長の項に記載があった。正確に言えば、ネット上で国会図書館所蔵の戦前に出版された『公卿補任』が公開されているが、そこにはないが。大日本史料に引用されている「公卿補任」には記述がある。その理由は不明だが(写本の違いか)、後者には「建久六年一一月一一日服解(父定長が死亡)、同一二月一五日復任、同八年一二月一七日補蔵人」に続いて「朝経死闕」との注記が加えられている。建久八年一二月一七日の直前に朝経が死亡し、清長が急遽後鳥羽天皇の蔵人に加えられたのである。続いて建久九年正月には後鳥羽の子土御門天皇が即位したため、清長は「新帝蔵人」に補任されている。
 朝経は死亡するまで父朝方のもとで出雲守であり、蔵人も兼ねていたが、出雲守についてもその闕を埋めたのであろう。建久九年四月日後鳥羽院庁解文案(鎌倉遺文九七七)の署判者として「判官代勘解由次官兼出雲守藤原(以下は欠)」とあるのが清長である。これが九月八日には新たに藤原家時(父親綱の姉妹が朝方室で朝経母)が出雲守に補任されているが、同年一二月二〇日後鳥羽院庁下文(鎌倉遺文一〇二〇)の署判者では「判官代勘解由次官藤原朝臣」と変化している。以上により、建久八年一二月一七日から同九年九月八日まで藤原清長が出雲守であったことは明らかである。知行国主については後鳥羽院であった可能性もある。朝方は子朝経の死により喪に服し、翌年に知行国主に復活した可能性もある。

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