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2018年3月

2018年3月31日 (土)

年未詳七月一三日院宣(鰐淵寺文書)

 これについては年次比定・発給者をめぐり見解が分かれている。再度検討してみる。
 従来は弘安四年の亀山上皇院宣とされてきたが、文永一一年説と後深草上皇院宣説が提示されている。奏者は従来「庄能」と読まれてきたが、近年の『松江市史』(二〇一三年)『出雲鰐淵寺文書』(二〇一五年)では「康能」と解読された。後者が正しく、藤原康能であることは問題がない。康能は文永八年三月八日に中将に進み、皇位が持明院統に移った翌年の弘安一一年二月一〇日には兵部卿に補任され、正応三年正月一九日には参議に進み、従三位に除せられた。翌四年正月六日には後深草院給により正三位に進んだ。六条宰相と呼ばれ、永仁三年に死亡している。持明院統のもとで昇進しており、亀山上皇よりも後深草上皇院宣である可能性が高い。ただし、年次は文永の役ではなく弘安の役に際してのものである。よって弘安四年の後深草上皇院宣であろう。
 そうなると問題となるのが、『松江市史』で西田友広氏が亀山上皇院宣で出雲国知行国主である侍従三位藤原家時に命令が出されているとして、弘安四年の七月三日までに出雲国が後深草上皇分国から亀山上皇分国に変化したとしたのである。本ブログでは侍従三位は藤原家時ではなく藤原能清で、その立場は漆治郷の領家だと考えた。弘安四年に分国主が交替したことは、本ブログでは同年三月に国造出雲義孝が杵築社遷宮に関する申状を提出していることから、知行国主が交替し、新任の人物に提出したと考えて、採用していた。明確なのは弘安年間に出雲国が後深草院の分国から亀山院の分国に変わったことである。
 そこで義孝申状をみると、遷宮注進状の最後には宝治二年に後嵯峨院・守時継のもとで、正殿遷宮が国造兼神主義孝により行われたことが述べられている。「弘安四年」と注記した①九月二一日出雲国司庁宣が残されており、その奏者は②弘安二年六月六日出雲国宣と同一人物であり、この時点では②に袖判を加えている平時継がなお知行国主であったと思われる。また、分国主の交替を示す長江郷は、文永年中には後深草院により祇園社に寄進され、分国主の交替をうけて弘安五年に亀山院により再寄進されている。ここからすると、分国主の交替は弘安五年とすべきである。ただし翌弘安六年(一二八三)三月二八日には持明院統系の平兼有が出雲守に補任されており、亀山院分国は一年で終了し、出雲国は再び持明院統の分国となったと思われる。正安三年一〇月四日の院宣は従来言われていた後宇多ではなく『出雲鰐淵寺文書』で示されたように伏見院によるものである。次に変化するのは文保二年の後醍醐天皇即位で、これ以降は大覚寺統系の人物が知行国主としてみえる。
 本題について再確認すると、弘安四年七月一三日に分国主である持明院統の後深草上皇から院宣が出され、出雲国衙に対して実検など漆治郷への妨げを停止させ、異国降伏祈祷を日吉社で行うように命令が出されたのである。見解が二転・三転した気がするが、これが最終結論である。その意味で亀山院宣とする『松江市史』、年次を明記せずに文永一一年前後の場所に院宣を配置した『出雲鰐淵寺文書』(後述のように、『出雲鰐淵寺旧蔵・関係文書』の文書目録では微妙な扱い)の見解は修正すべきと考える。
 退職後の四月一日以降のアップは330本である。約一ヶ月は部屋の整理に追われほとんど更新できなかったが、なんとか種切れにならずに続けている。とりあえず一〇月でブログ開設一〇周年となるのでそこまでは続けたい。

2018年3月30日 (金)

日本車の行方2

 昨年、自車を更新し、インド製のスズキ車にしたが、これはミリ波レーダーのみの自動ブレーキとACCが全車標準装備であり、セッティングはヨーロッパのライバルを意識して行ったそうだ。カメラがないので人は感知できないが、対車の性能は良い。スイフトは日本で生産してヨーロッパが主戦場なので、単眼カメラ+ミリ波レーダーでなければ、ヨーロッパでの競争力は弱いと思われる。価格面でもこのほうが優位性があるように思えるがどうであろうか。同時期に長女の車も更新したが、その時点では安全装備のよいスイフトの日本仕様のサスのタイプを選んだ。日本でもヨーロッパと同仕様のサスのタイプがカタログ上の主力となったが、その後、外国に輸出されるスイフトはすべて幅広ボディで、日本で販売するものだけあえて寸詰まりの5ナンバーだということが判明した。次期カローラも現行の日本専用(ビッツのプラットフォームを流用)から、グローバル仕様に戻り3ナンバー化するとされているのだから、スイフトもグローバル仕様が望ましい。インド製スズキ車も50mm幅広だが、ミラーの両端の間の長さは5ナンバーと一緒だという。
 今年は、年末の積雪対策で長男の車を更新して納車待ちであるが、自車としては絶対選択しないトールワゴンにした。安全装備が普通車並だからである。同じメーカーの昨年マイナーチェンジして安全装備を替えた普通車二車よりも、新しい分だけ性能が良い。それは何に基づくかといえば国土交通省の外郭団体独立行政法人自動車事故対策機構が公開しているデータによる。その動画がユーチューブでも転用され、車毎の優劣ははっきりしている。ただし、その検査を受けることは義務ではないようで、性能が劣るが故に検査を受けていない車もある。軽で安全装備の二番手はいぜんとしてスズキのディユアル・カメラタイプのブレーキである。同タイプで生産メーカーの違うダイハツのものは、それと比べて明らかにぶつからない性能が劣っている。
 アメリカの自動運転テストでの死亡事故のように要は運転者もしっかり操作しないといけないが、車も今は一度買えば10年近くは使用するとなると、現時点で一〇年後もかろうじて評価されるのは今回購入したトールワゴンのみである。スズキのトールワゴンはつい最近テスト結果が公表されたが、自動ブレーキが有効に働く範囲が狭いのである。あと二年後なら各社のブレーキも性能が高まり、本来の車選びができるのだが、現在ではホンダのトールタイプとスズキのハスラー以外の軽の自動ブレーキ性能はよろしくないのである。設計担当OBの意見としてはスペーシアは在庫のあるうちに旧型を買いなさいとのこと。
 マツダも品質重視はよいが、価格面の問題から日本市場では売り上げを減らしているというが、スズキを含めた軽自動車メーカーも追突したら宿命的に弱い軽であるがゆえに、ぶつからないブレーキを装備してほしいところである。日本車がよくなるには日本の購入者が車に対する認識を変え、従来の安直な考えを改める必要があるが、そのためにはこれまでの選択がなぜ日本車(メーカはなお技術は持っている)を悪くしているかについての情報を提供する人が必要である。以前述べた姉歯現象を体現するような車(昨年新発売、トヨタ、ダイハツ、スバルで販売している。トヨタのみ検査を受けているが、性能は低い)もあるのである。生産を担当したダイハツの一つ前の自動ブレーキで、トヨタのCより遙かに性能は低い。

日本車の行方1

 スズキはこれまで娘婿に経営をバトンタッチして発展してきたという。現会長鈴木修氏もそうであった。その後継者も娘婿の予定であったが、2007年に五二才で死亡したため、鈴木氏の息子が社長となったそうだ。
 こうした経過はどうでも良いが、問題はスズキ車である。死亡した娘婿小野氏が国際的に通用する車造りを主導して誕生したのがスイフトの二代目(実質的には初代)で、三代目にもそれは受け継がれていたが、現行の四代目はどうもそうではなさそうである。スズキ車では普通車であるスイフトと軽自動車でどうも報道から受ける感じが違っていた。前者は硬派であり、他の日本車と違い高い評価を受けていた。わかり安い点ではタイヤも同クラスの日本車より一回り大きい物を装着していた。これに対して国内専用の軽はコスト中心でそれほどのこだわりの感じられない軟派であった。
 それが四代目ではタイヤは同じく大きいが、コスト優先の軽のスズキ車の特徴が強くなり、国際的に評価される車造りは後退しているようである。国内での評価は幅があるが、少なくともヨーロッパでの評価は、値段は安いが、前代までのように気持ちよい走りは感じられないというものである。自動ブレーキも、両方とも独コンチネンタル社の単眼カメラ+レーザーレーダーを採用し、一応の性能はあるが、特筆すべきものではない。トヨタの小型車に搭載されるセーフティセンスCとハード面では一緒で、ソフトウェアが更新されて人にも対応とのこと。トヨタ車もTNGAに一新する際に自動ブレーキを大幅に変えるようだが、とりあえずアクアのマイナーチェンジで、ソフトウェアが更新されるようである。これまでのC搭載車では最近までマイナーチェンジでの更新はなかった。アクアはハイブリッドが中心で少し高価だからであろうか。本来は総ての車種で更新すべきと思うが。トヨタもTNGAへの移行の関係でモデルチェンジまでかなりの期間が予想される車がある。自動ブレーキ標準装備といっても、その性能はさまざまで、価格に見合わないものも少なからずある。
 スズキの軽とスイフトの違いは、後者は別にミリ波レーダーを搭載してACCを装備しているが、軽にはなく、ワゴンRやスペーシアでは最上級グレードにのみ速度一定のCCが搭載されている。またスペーシアは政府の基準を満たすため、サイドエアバッグは全車に装備可能としたが、カーテンエアバッグはこれまた最上級グレードのみである。そしてここに来て、ヨーロッパが主戦場でハンガリーで生産しているエスクードが、マイナーチェンジで従来のミリ波レーダーのみのブレーキ(ACCも担当)から、スイフトと同じものに変更するという。このようなコスト重視で大丈夫なのだろうか。スズキの普通車にはAセグメント用とBセグメント用のプラットフォームがあり、イグニス・ソリオ・クロスビーはAセグ、スイフト・バレーノ・エスクード等はBセグである。同じエンジンを搭載している場合もあるが、1.4リッターターボは後者のみ搭載している。イグニス・ソリオが登場した際にはディユアルカメラタイプの自動ブレーキを採用したが、三番目に登場したクロスビーは単眼カメラ+レーザーレーダーで、スイフトのようにミリ波レーダーによるACCではなく、軽の最上級グレードと同じ速度一定のCCしか装備されない。AセグとBセグを分けているのだろうが、これも解せないやり方だ。

出雲部の山間部2

 500M先に停めたの車に戻る途中で、先ほどの軽トラがまだいたので、御礼を言いつつ話をした。地元の人ではないが歴史に関心はありそうである。50才前後の男性であった。残るは安田の入り口にある土井団地である。二つの八幡宮が谷の中流部にあったように、鎌倉初期のこの地域の耕作地も谷田中心であった。そこに承久の乱の恩賞として入部してきた地頭江戸氏(武蔵国御家人)は東国での低湿地開発の経験をいかして安田川が伯太川に合流する下流地点に館を構え、新田開発を行ったと思われる。それを示すのが「土井」の地名である。その南には安田北の丘陵の先端部がのびており、長田城があったとされる。
 三〇年前には探すのに苦労しなかったと思うが、今回は案外に手間取った。安田には廃棄物置き場が目立ち、不法投棄を禁止する表示もあった。谷の奥部はあまり人家がないように思われた。一三時前に安田を出て、吉田-広瀬-布部-比田を経由して一四時頃に仁多郡横田に着いた。藤ヶ瀬城は以前は戦国期の三沢氏の本城とされていた。それまでの三沢城から本拠を移したとするのである。ところが自分で関係史料を呼んでいたら、三沢氏当主が嫡子に跡を譲ると、他の子を伴って隠居したのが横田であるとの解釈しかできないと思った。その関連史料をみても、惣領三沢氏と庶子である横田三沢氏は明確に書き分けられている。それが、大内氏が尼子氏を攻めた際に、三沢氏惣領が裏切ったため、大内氏敗退後、惣領は殺害され、横田三沢氏の男子が新たな惣領となった。それほど難しいことではないが、先入観をもって史料を読んでいたのだろう。
 城そのものに上ったことはないが、藤ヶ瀬城よりは、惣領の城であった三沢城や亀嵩城の方が規模は大きそうである。ということで、三刀屋方面に下る途中で、三沢小学校前まで行ってみた。亀嵩の総光寺も大きいが、三沢の蔭涼寺も大きな寺院である。途中から314号から分岐して中野・多久和方面を経由して三刀屋に向かった。崇徳天皇の御願寺飯石社を確認しようと思ったのだが、寿福寺の表示には気づいたが、飯石神社は気づかずに通りすぎてしまった。飯石小学校への標識も見たが、三年前に廃校になったようだ。永井隆氏の生家については、過去に来たこともあり、記憶が一部よみがえった。
 一五時過ぎに三刀屋につき、遅めの昼食をとったあと、つい松江に帰りかけたところで、最終目的地が地王峠だったことを思い出して写真を撮影。近隣の高校に勤務していたこともあり、このあたりは比較的詳しいのだが、やはり車で通過するだけではわからないと感じた。その後、大東を経由して松江に帰った。時間的余裕があれば日倉神社などいろいろと寄り道をしたい場所があったが、今日は、車を借りた家族を仕事場に迎えにいかなければならず、必要最小限の場所のみ回った。各地で桜は満開であった。途中で一〇才ほど年上の元同僚の姿も見かけたが、互いに年を取ったことを実感した。

出雲部の山間部1

 石見部の二日後に、安来市(能義郡)・仁多郡・雲南市(飯石郡・大原郡)を回った。道路と人家の状況は石見部ほど悪化してはいない。
 最初に安来市伯太町の安田に行ったが、この日はナビなしの軽自動車で行き、うろ覚えで道を反対側に曲がってしまい、入った谷は安田北隣の清瀬であった。気を取り直して安田に入り、小学校や公民館を横目に進んだが、目的の安田北八幡宮が見当たらない。一旦停車して地図を見直すと、安田北の谷を見過ごして安田中の谷に入っていた。ということで予定を変更して最初に安田宮内八幡宮に行った。鳥居の横に駐車して階段を上っていくが、あまり人が通った様子がみられなかった。それでも先に進み、平坦になった尾根上の道を進んでいくと、左右に車の進入路があった。最近は地元の人も車の上るのであろう。さらに進むと階段があり、それを上ると安田宮内八幡宮の社殿があった。なぜか階段とは九〇度方向がズレており、本来の階段から変わったのかもしれない。
 山川の歴史散歩などの執筆をしているが、建築様式には不案内である。ただし、出雲部の神社に多い大社造の妻入りとは明らかに違う平入りである。ネットで確認すると八幡造というらしい。北八幡宮も同様であったが、こちらの方があまり参拝者がなさそうで、本殿以外は建物の劣化が進んでいた。三〇年ほど前に、島根の中世という山陰中央新聞の企画で安田庄を担当したので、何度か足を運んで以来の訪問であったが、地域の人口減は明確に感じられた。来た道を降りる道すがら右手に一本あった桜は満開であった。
 次に通りすぎた北谷に入ったが、道の左手にあるはずの北八幡宮を示す表示に気づかなかった。更に二度ほど走り直してもわからないので、車を降りて歩いて探すこととした。たまたま軽トラの中で弁当を食べている男性の姿があり、工事で来た人で地元ではないと思ったが聞いてみた。やはり予想どうりであったが、よくは知らないが、100Mほど下ったところに神社の入り口があるとのことだったので、行ってみると道の傍らに「八幡宮」と刻んだ小さな石碑があった。
 ほっとしてその道に入り上っていくと正面に神主宅らしき建物があった。その前で左に折れてさらに上っていくと道が二つに分かれており、神主宅の背後に向かう道を進んでいったところ、ようやく神社の境内がみえた。階段を上がると、さきほどと同じ八幡造の社殿が正面に見えた。こちらは神主宅が近くにあり、宮内八幡宮より整備されていた。ただしその場で撮影した写真をみると最近人が参拝に訪れた感じはしない。本殿の裏を回ると二本の支え棒があり、強い風雨や地震で倒壊しないためであろうか。上って来たのとは違う道を下ってみると階段下に鳥居があり、その傍らの桜も満開であった。これはその時は気づかず、写真で確認した。鳥居の先の右手が神主宅の玄関であった。

2018年3月29日 (木)

杵築大社領の本家と領家11

 宗子は正安四年には次子邦省親王を産んだが、その後間もなく亡くなったのではないか。そのため、その子は宗尊親王の遺児瑞子女王のもとで育てられることになった。翌年には院号を与えられ永嘉門院となるが、一方では正安三年には父宗尊親王が相続者となっていた室町院領の半分を相続することが一旦は認められた。ところが永嘉門院が後宇多の後宮に入ったことで、室町院領の四分三が大覚寺統分となることに不満を持った持明院統の伏見上皇が幕府に訴え、結果として永嘉門院の相続は無効とされ、室町院領は両統で折中された。
 後二条天皇の死(一三〇八)により持明院統の花園天皇が即位したが、文保二年(一三一八)には皇位は大覚寺統に戻り、後二条の弟後醍醐が即位し、後二条の子邦良親王が皇太子となった。こうした中、邦良親王を養育していた永嘉門院が元亨四年に室町院領問題について幕府に越訴を行った。幕府は正安三年の当初の裁定が正しかったとしてその主張を認めたが、現実には両統で二〇年以上折中してきたとして、妥協策として正安三年の永嘉門院分の半分(室町院領の八分一)を永嘉門院分とする裁定を下した。大覚寺統はこの裁定に従うとしたが、持明院統ではこれではやはり大覚寺統に有利だとして、幕府に使者を派遣した。その後、幕府法廷で書面による四問四答が行われたが、幕府は最終的には永嘉門院の越訴を棄却した。
 幕府を批判する持明院統側が、昨年=元亨三年にも永嘉門院に所領を返したのに、更に、室町院領を分けて返すのは不審であると主張した。この中に永嘉門院を養育した承明門院の所領であった杵築社領が含まれていたと考えられる。返したのは大覚寺統である。邦良親王の末裔である柳原宮が応永三〇年に提出した申状でも、元亨三年七月二七日の後醍醐天皇綸旨により杵築社領を安堵されたことが記されている。永嘉門院は元徳元年に五八才で死亡し、皇太子邦良はそれに先立ち正中三年に死亡していた。弟邦省親王がいたが、後醍醐天皇が元弘の変で逮捕され隠岐に配流された際には持明院統の光厳天皇が即位した。
 以上、出雲実政に関する二通の史料から、鎌倉後期の杵築大社領の本家と領家がどのように動いたかを見てきた。嘉元四年までに松殿兼嗣が領家に復帰すると、実政の関係者である孝助が領家雑掌に起用された。実政自身については明らかではないが、過去の領家への不忠もあり、領家がその一族孝助を起用したと思われる。延慶二年には国造孝時が雑掌孝助による所領押領を幕府に訴え、再び裁判が開始された。正和三年八月二七日には国造が過去に神主に補任されたことが認められたが、その後も杵築社領をめぐる領家雑掌と国造の裁判は続いて行った。従来の杵築社領の研究は関係史料の年次比定と内容の分析が不十分なままなされたものであり、訂正される必要がある。

杵築大社領の本家と領家10

 課題として残していた①年未詳五月二五日領家中納言僧都御房袖判実政奉御教書と②一〇月二八日沙弥法願書状について検討する。鎌倉遺文の編者竹内理三氏は①の冒頭の「去年御代始検注段米」から、後宇多天皇即位の翌年=建治元年のものとした。ただし、これは当時の領家が松殿兼嗣であることと矛盾しており、成り立たない。本家が安嘉門院の死によって亀山院に交替した弘安六年九月四日以降のものである。その直前の八月日には兼嗣が鰐淵寺僧維孝に杵築社法華経田五段を宛行っている。
 亀山院は領家職を兼嗣から奪い、弘安八年一〇月一八日領家奉書の発給者である某御房に与えた。その後、領家は廊御方に交替したが、その時点で松殿兼嗣が訴訟を起こし、領家への復帰を図ったが実現しなかった。弘安一〇年ないしはその翌年に杵築社本殿の造営と遷宮が終わったこともあり、新領家廊御方のもとで出雲実政が神主に補任された。実政は松殿兼嗣への不忠により神主を一旦解任されたが、廊御方のもとで復活した。これに異論を持つ国造泰孝が訴え、幕府が正応五年七月九日に泰孝の主張を認め、六波羅探題に領家廊御方に申し入れるよう命じている。
 実政は幕府に越訴を行ったが、永仁五年二月一一日に幕府がこれを退けている。永仁三年までは廊御方が領家で、松殿兼嗣との間の裁判が幕府で継続していたことがわかる。領家をめぐる裁判の判決は残っていないが、その後領家は中納言僧都御房に交替し、そのもとで実政が預所に補任されたことが①からわかる。となると「去年御代始」とは後宇多の即位ではなく、一旦持明院統に移っていた皇位が、後宇多の子後二条天皇が即位したことで大覚寺統に戻った正安三年正月のことである。当然、①は正安四年五月二五日のものとなる。杵築大社領は大覚寺統が支配していたのである。
 これに対して②はそれ以降のものとなるが、この時点で実政は実孝と改名し、領家中納言僧都御房の祗候人となっていた。それに対して訴訟との関係で、領家に対して実政の照会がなされ、中納言僧都御房の側近である法願が回答したのが②である。その後、嘉元四年には松殿兼嗣が領家に復帰していたことが確認出来る。正和三年には三崎社検校も補任していた。その背景として兼嗣が五辻三位を通じて大覚寺統に働きかけたことがあったのだろう。五辻三位が後二条天皇の第一皇子である邦良親王を正安二年に産んだ五辻宗子の兄弟親氏であることはすでに述べた通りである。

鎌倉後期の杵築社遷宮2

 以後、知行国主・朝廷の文書は残っておらず、造営料の確保についても幕府が命じている。正応・永仁年間には出雲国の反別三升米で造営を行うよう命じていたが、造営が進まないためか文保二年(一三一八)一二月には国衙の正税の半分を宛てる方針が示された。次いで元亨三年三月五日にはその事が行われていないとして、先に経替えて沙汰したいとの国造の申請を幕府が認めている。問題はこれで造営が完了し、正中二年(一三二五)に遷宮が行われたかである。応安三年八月二八日出雲大社神官等申状にはその旨が記載されている。
 その意味で翌嘉暦二年(一三二七)九月五日関東御教書が問題となる。正税の半分とは一万一八七〇石と想定されていたが、実際は七五八〇石で治定したとして、これでは不足なので、正応・永仁の例に任せて反別三升米を課して造営を急ぐべきとしている。嘉暦二年の時点でも造営は完了していなかったと評価すべきである。造営の完成と遷宮の実施はこれ以降のことであろう。隠岐に配流中の後醍醐が鰐淵寺に対しては本願が成就した際には造営を約束する願文を捧げているのに対して、杵築社にはその形跡がないため、とりあえず幕末には遷宮が完了していたと思われる。
 国司についても元応元年(一三一九)には洞院実泰が知行国主であり、嘉暦元年二月には一三才の園基隆が国守に補任されたことがわかるのみである(以前の記事で知行国主は父基成か母方の祖父小倉実教と推定)。基隆は翌二年四月八日には右兵衛佐に補任されており、この時点で出雲守は交替した可能性もある。また嘉暦元年三月には守護佐々木貞清が死亡し、これに伴い従兄弟である富田師泰と佐世清信・古志宗信も出家している。清信の室は富田師泰の娘であり(清信は湯頼清の晩年の子で嫡子となったか)、宗信の母は富田義泰の娘=師泰姉妹である。次いで七月には一族の長老(七二才。泰清の子ではこの時点で唯一の生存者であろう)で焼失した鰐淵寺の再建に関心を寄せていた高岡宗泰(富田義泰の子宗義を養子とし、自らの娘は富田師泰の室)も死亡しており、正中三=嘉暦元年に遷宮が行われた可能性は低い。

鎌倉後期の杵築社遷宮1

 この問題については井上寛司氏作成の一覧表で弘安一〇年(一二八七)と正中二年二月一六日に遷宮が行われたと記されているが、根拠はあるのだろうか。
 前者については弘安一〇年八月三〇日に朝廷で遷宮日時が定められたとの記事があり、これに基づく。ただし、日時決定から実施までにはある程度の時間が必要である。宝治二年一〇月二七日に行われた遷宮の場合、その日時が決定されたのは一年以上前の宝治元年九月二五日である。久安元年一一月二三日の遷宮日時(実際にはトラブルにより二五日に完了)は一月強前の閏一〇月一三日に決まっているが、一年以上前の天養元年九月二五日にも日時が検討されており、当初の日程(仮決定)を変更し、正式決定後一一月に実施したことを示す事例ではないか。閏一〇月には国司が下向し、遷宮前に仮殿で神拝を行って二六日に上洛している。
 これが仮殿遷宮の場合は決定から実施までの期間は短く、康治元年一一月二一日の遷宮は一月強前の一〇月一一日に定められている。とりあえず、弘安一〇年ないしは一一年には遷宮は実施されたと思われる。当時の出雲守をみると平忠俊が弘安七年(一二八四)年七月に補任され、藤原実躬が正応二年(一二八九)以前から出雲守であったことが確認されているが、この前後の出雲守は短期間で交替することが多く、忠俊が遷宮まで出雲守であったかは不明である。
 これに対して正中二年の遷宮については、後世の国造側が作成した記録にあるが、現在残っている史料とは明らかに矛盾している。知行国主日野俊光・中御門為方・西園寺公衡(~一三〇一~一三〇五)に造営に関する命令が出されており、新たな本殿造営が開始されていたことがわかり、その一方で幕府の関与が強まり、守護佐々木貞清、在国司朝山時綱、多祢頼茂とともに国造が造営を進めることを命じた関東御教書が出されている。

 

2018年3月27日 (火)

建久元年の正殿遷宮と神主2

 こうした中、永暦年間には後白河の近臣で、出雲守として知行国主清隆のもとで久安の正殿遷宮を行った光隆を領家、後白河を本家として杵築大社領の再立券が行われた。ただし、平治元年に藤原信頼との関係により解任された光隆が永暦元年に復帰できたのは美福門院との関係によると思われる。その死により光隆は後白河の近臣となった。この時点では内蔵忠光に代わって国造兼忠が中心であり、国造家が神主職に補任された。それが鎌倉幕府成立により忠光の子資忠が国造のライバルとして登場した。当時。資忠は隠岐国在庁官人でもあったが、隠岐守は後白河院の側近であり、院とのパイプも有していた。ところが隠岐国では隠岐守藤原惟頼の従兄弟で幕府の有力御家人となっていた藤原宮内大輔重頼が平家没官領の地頭に補任され、大きな影響力を持つようになった。重頼が地頭となった所領には平家没官領に該当しないものが含まれており、その訴えを受けた後白河は隠岐守藤原惟頼を更迭し、側近の源仲家に交替させた。
 文治五年四月に、奥州の源義経と結んでいることを理由として知行国主朝方と出雲守朝経の解任を求め、一三日に実現させた源頼朝が、朝方の目代兵衞尉政綱の幕府への引き渡しが四月五日に終わったことを知った途端に二一日付書状で、政綱以外の目代を起用して朝方・朝経父子の復帰を要請し、閏四月二八日には両者の還仁が実現している。その書状の中で頼朝が、解任を不憫に思っていた(自分が要求したにもかかわらず)上に、杵築社の遷宮を受け取られないのも不憫だと述べているが、正殿造営は頼朝が推薦した資忠が行っており、頼朝も援助を行っていたと思われる。資忠は文治五年六月一五日に頼朝から馬を与えられ、出雲国に戻ったが、遷宮が迫った文治六年(建久元年)正月にも鎌倉を訪れている。この時点では朝廷から一条能保を通じて、資忠を神主から解任すべきであるとの要求が伝えられたのに対して、頼朝は資忠を出雲国に帰らせるとともに、神主の補任は領家の問題であり、自分が口を出す問題ではないと返答した。
 朝廷並びに国造側は遷宮を絶好の機会として神主の交代を求めたのだろう。遷宮時に御神体を奉懐する国造が神主を務めるのが前例だと述べたのだろう。本来なら交替時期は正月だろうが、今回は頼朝と領家側が譲歩して、一旦は国造孝房が神主に返り咲いたが、年末に請文提出者から神主を選ぶ際には、遷宮が終了したため、領家が再び資忠を神主に補任したため、建久二年七月に国造孝房が国衙在庁官人を巻き込んで解状を提出した。しかし結果は変わらず、領家は資忠を神主に補任した。
 これが承元2年に資忠が死亡し、京都で生活していた子の孝元は経験が不足したため、幕府が領家に対して新たに権検校の設置を要請し、惣検校が国造孝綱(孝房子)、権検校孝元という体制となったと思われる。

 

建久元年の正殿遷宮と神主1

 出雲守に補任された藤原能盛の在任期間と藤原朝経の死亡時期が判明したので、これに基づき、建久元年の遷宮に至る過程を明らかにする。
 久安元年遷宮の正殿が顛倒し、仮殿遷宮が行われた時期について、弘安四年三月日国造義孝申状は、承安二年一〇月一〇日顛倒、安元元年一一月一九日仮殿遷宮とし、井上寛司氏もこれを採用されているが(『日本中世国家と諸国一宮制』)、これが事実ではないことは何度か述べてきた。承久二年三月八日杵築社政所注進状が記すように久安元年の正殿遷宮から三四年目に仮殿遷宮が行われたというのが正解である。ただし、注進状には混乱がみられ、34年目=治承二年とすべきところを承安元年と記していた。一方、千家文書に残る安元二年一〇月日出雲国司庁宣では、義孝申状で安元元年に神主として仮殿遷宮を行ったはずの宗孝が翌二年に国造に復帰すると記しており、矛盾している。国司庁宣もまた後に作成された偽文書であるが、義孝申状とは異なる時期作成されたためであろう。
 この間の出雲国司は、知行国主藤原朝方、出雲守はその子朝経という体制であったが、承安4年正月の除目で後白河が自らの側近藤原能盛を出雲守に起用したため、朝方・朝経は石見国司とならざるを得なかった。それが、三年経った治承元年の除目で後白河院が出雲国に代えて周防国を分国として近臣藤原季能を起用したため、朝方・朝経父子が出雲国司に返り咲いた。ただし、半年後に周防守に藤原能盛が起用された。
 朝方・朝経の復帰後、杵築社の顛倒が発生し、翌治承二年一一月一九日に仮殿遷宮が行われ、次いで正殿造営が開始された。この時点の神主は国造宗孝であったが、文治元年にはその子孝房に交替した。造営の進行状況は、飢饉・戦乱・政変もあり十分ではなかった。これに対して文治二年五月二日に頼朝の推薦をバックに神主に補任されたのが内蔵資忠であった。頼朝は上西門院の蔵人となり、待賢門院系の人々とパイプを持っていた。薗山庄を支配する吉田経房宛の推薦状を薗山前司師兼の依頼を受けて与えていた。杵築社領家藤原光隆もまた父清隆が待賢門院別当であり、待賢門院系とのつながりを持っていた。そのため、頼朝は自らが伊豆に配流されていた時期に大功のあった内蔵資忠を推薦した。資忠の父忠光もまた、待賢門院の子崇徳の側近であり、隠岐守を務めた藤原資憲とその父日野実光の関係を有し、一度は杵築社領の庄園としての立券を行った。成功したかにみえたその試みは保元の乱で崇徳が敗北したため、庄園は一旦は公領に戻されたと思われる。

石見部の山間部

 山城の遠景写真を取る必要があり、ドライブをしたが、島根県の歴史散歩の第2版を執筆するために回った時よりも一段と過疎化が進んでいるように感じた。前回は1994~95年だった。現在の第3版では現松江市全域を執筆したが、第2版では石見部の美濃郡・鹿足郡・那賀郡・邑智郡を担当した。第1版には関わっていないが、4郡については当然採り上げるべきだが、諸般の理由で原稿が欠落している箇所がかなりあった。2版では現地を訪れ総て掲載した。交通手段の確認ということで、バス停を確認するが、すでにバスが運行していない箇所も珍しくはなかった。
 高津城を撮影するため、益田市の柿本神社を訪れた。高津城の主要部分に神社がある。境内を回ってみたが、高津城に関する掲示は全く無かった。戦前は高津小学校の校歌にも高津長幸が歌われていた。現在の校歌はHPでも確認できなかったが、426人の生徒が在籍しているようだ。果たして何人が知っているのだろうか。戦前には高津道性長幸とされた人物は道性とその子と思われる長幸という二人の人物であった。道性が長門探題攻撃の中心となり、建武政権下では石見国守護に補任された。建武3年の南北朝動乱開始時の幕府方国人の軍忠状では高津城に守護代を攻撃したとあり、何故高津城に守護代がいたのか想像ができなかったが、ようやく理解ができた。道性は間もなく死亡したようで、その子長幸の時代となったが、守護の後任は周布兼宗であった。また、鎌倉時代の石見国守護は東部の安濃郡にいたこともわかってきた。
 神社訪問も四半世紀ぶりだったがまったく記憶がよみがえらないため、帰宅後第2版を開いてみるが、思い出したのは1km離れた連理の松の写真を撮ったことぐらいか。とりあえず、次の目的地である浜田市旭町今市にある家古屋城へ向かう。今回は島根の城館の当該部分を印刷・携帯したのみで、道路地図がなかったため、とりあえず浜田から186号経由で行こうと思ったが、山陰道の相生出口を通りすぎてしまったため、下府から跡市方面へ向かった。たよりとするのはナビのみである。一直線に目標地点とはならず、回り道となったが、なんとか5号線に出て、そこから今市に着いた。
 家古屋城は南北朝期の福屋氏の本拠とした城で、これも幕府方によって攻撃されている。第2版では言及もされていない。史跡と天然記念物の県指定以上のものを収録する方針から洩れていたためであろう。福屋という苗字が何に起因するのかも当時は不明であったが、現在では福屋氏初代兼広が最初の拠点とした邑智郡日和郷内の福屋によることがわかった。その後、兄益田兼季の死亡により所領の配分が行われ、新たに得た那賀郡阿部郷に拠点を移した。阿部郷は兼季が二代将軍頼家に安堵を求めた申状に記されていたはずであるが、現在残る文書はその部分が空欄となり、国方15箇所の安堵を求めたのに実際は14箇所しか記されていない。
 遠景を撮影するといってもどの方向からのがよいのかは微妙である。一番高い平坦部分ではなく、やや離れた2番目に高い平坦部分が主郭と述べているものあるが、自分自身では判断がつかない。昨年12月に稲積城、三隅城、洞明寺山城、二つ山城、藤掛城、赤穴城を撮影したが、その時に洩れたのが2城であった。問題は、今市からどの経路で帰るかであるが、ままよと桜江町市山を経由してなんとか261号に出たが、思ったよりも遠かった。そこから江津へ引き返すのも遠回りなので、大家・三原方面の道に入ったが、すぐに車が一台しか通れない細道となった。ほとんどすれちがうことはなかったが、夜なら土地勘がないとやばそうな感じであった。たまに人家があり、高齢の女性と男性の姿を横目にみながら北佐木に出たところで、大家方面ではなく無難な温泉津方面に進んだ。こちらの道は2車線であった。たまにバス停があったが、例外なく市町村が運営するものである。なんとか日没前に福光で9号線に出て、そこから松江に帰った。残るは大原・仁多郡と能義郡。

2018年3月24日 (土)

稲積庄領家定頼卿について

 承久の乱後間もない時期の宣陽門院領目録に庁分として伯耆国稲積庄がみえ、そこに「定頼卿」の注記がみえる。領家を示すと思われるが、この時期に該当するのは二条定輔だとして、『鳥取県史』の編者は「輔ヵ」と推定している。問題はこの注記がどの時点で付けられ、いつの時点の「定頼卿」かである。すでに述べたように宇多川東庄は親範領であったのが娘の子である吉田資経に譲られていた。稲積庄は親範から娘婿経房を経て、経房孫娘の婿葉室光親に譲られていたが、光親は承久の乱への関与で処刑されてしまった。
 貞応元年一一月二五日に後堀河院のもとで行われた清暑堂御神楽の比巴の奏者として「前帥 前権大納言定頼」がみえている。建保二年六月二九日に前権大納言二条定輔は大宰権帥に補任されており(承久三年一二月一〇日去任)、これは定輔(楽器の名手であり、出雲国知行国主であった)の間違いであろう。定輔が承久の乱後「定頼」と改名した可能性も探ったが、死亡する嘉禄三年七月九日の時点でも定輔である。元は親輔であったのを定輔と改名したとする。二条定輔と以前の領家であった葉室光親の間には婚姻関係など確認出来ない(定輔の子の母はすべて不明)。さらに賀茂社領伯耆国稲積庄と宣陽門院領伯耆国稲積庄との関係も不明である。賀茂社領の方は寿永三年と応永二三年にその存在が確認出来る。
 一方、応永一四年三月作成の長講堂領目録には庁分として稲積庄、久永御厨、矢送庄がみえ、稲積・矢送庄の領家は葉室入道大納言家=宗顕である。光親は光頼の子光雅を祖とする堀川流の二代目であるが、宗頼は光雅の同母弟で、その孫資頼(宗方の子)と光親の娘との間に季頼が生まれている。宗顕は季頼の曾孫長隆の孫である。宗頼には養子宗行(藤原行隆の子)もいたが、光親と同様、承久の乱の後鳥羽方側近ということで斬られている。
 謎は深まるばかりであるが、稲積庄領家は親範→経房→光親→光親女子→季頼→頼親→頼藤→長隆→長顕→宗顕という経路をだどって継承されたと思われ、宣陽門院領目録中の「定頼卿」については不明である。関係者(承久の乱で没落)で公卿となっている人がいないのである。『鳥取県史』の比定にも一理はあるが、新たな疑問が生じてしまう。
 応永二〇年に武家に写し遣わしたとの注記のある長講堂所領目録には、伯耆国では久永御厨(此内由良郷)のみみえ、その下に「相国寺」との記載がある。他の所領にも天竜寺などの有力寺院や(各国の)守護と記されており、これは長講堂領の半済の状況を示しているのだろう。
(補足)定頼卿に該当する人物として建長三年正月二二日に従三位に除せられ、同年に死亡した藤原定頼がいる。これが当該人物とすると注記は建長三年に付されたことになる。末次庄領家藤原長兼の甥である長宗の子だが、同族の葉室資頼の養子となり、延応元年八月二九日には備後守に補任されている。次いで寛元三年一一月二二日から宝治元年三月一六日まで和泉国知行国主をつとめ、次いで伯耆国に遷任した。定頼の死により、資頼の養子となった頼親(季頼子)が定頼跡を継承し、稲積庄を継承した可能性が高い。

2018年3月23日 (金)

出雲守藤原清長

 「鎌倉前期の出雲国司1」で清長について系図の記載のみで時期の特定に難があるとしたが、一応藤原朝経と藤原家時の間に入れておいた。藤原朝方の子朝経と朝方の室の甥家時であり、その時の知行国主は朝方であったと思われる。朝方は建仁元年二月一五日に出家し、翌日死亡した。六七才であった。三月一一日に葉室宗頼の養子となっていた藤原顕俊が出雲守となった。朝方の死に伴う交替であった。
 清長は吉田経房の弟定長と、平清盛との関係で仁安元年(一一六六)から嘉応元年(一一六九)に安芸守現任が確認出来る藤原能盛の子であるが、出雲国では朝方の子朝時の国守現任が確認できる仁安二年一〇月一九日以降、建仁元年二月の死まで、一時期を除き朝方が知行国主であった。一時期とは院分国下で能盛(安芸守とは別人で、この後院分国下で周防守も務める)が国守であった承安四年正月から次庄元年六月までと、義仲のクーデターによる寿永二年一一月から元暦元年九月まで、朝方が義経への与同を疑われた文治五年四月から閏四月までである。
 『公卿補任』で清長の経歴をみると、寿永二年八月一六日河内守(一三才)、元暦元年淡路守、文治元年河内守、同三年正月五日従五位上、同五年兼勘解由次官(一九才)とあり、上記の三時期に出雲守に補任されることは不可能である。とすると朝方が知行国主であった時期となる。朝方の子朝経は文治五年閏四月一八日に知行国主朝方とともに出雲守に還任したが、いつまで出雲守であったのであろうか。
 朝経は公卿になる前に死亡し、系図でもその没年は記載がないが、『公卿補任』の清長の項に記載があった。正確に言えば、ネット上で国会図書館所蔵の戦前に出版された『公卿補任』が公開されているが、そこにはないが。大日本史料に引用されている「公卿補任」には記述がある。その理由は不明だが(写本の違いか)、後者には「建久六年一一月一一日服解(父定長が死亡)、同一二月一五日復任、同八年一二月一七日補蔵人」に続いて「朝経死闕」との注記が加えられている。建久八年一二月一七日の直前に朝経が死亡し、清長が急遽後鳥羽天皇の蔵人に加えられたのである。続いて建久九年正月には後鳥羽の子土御門天皇が即位したため、清長は「新帝蔵人」に補任されている。
 朝経は死亡するまで父朝方のもとで出雲守であり、蔵人も兼ねていたが、出雲守についてもその闕を埋めたのであろう。建久九年四月日後鳥羽院庁解文案(鎌倉遺文九七七)の署判者として「判官代勘解由次官兼出雲守藤原(以下は欠)」とあるのが清長である。これが九月八日には新たに藤原家時(父親綱の姉妹が朝方室で朝経母)が出雲守に補任されているが、同年一二月二〇日後鳥羽院庁下文(鎌倉遺文一〇二〇)の署判者では「判官代勘解由次官藤原朝臣」と変化している。以上により、建久八年一二月一七日から同九年九月八日まで藤原清長が出雲守であったことは明らかである。知行国主については後鳥羽院であった可能性もある。朝方は子朝経の死により喪に服し、翌年に知行国主に復活した可能性もある。

2018年3月21日 (水)

吉田家領薗山庄3

 前後して正治二年(一二〇〇)の経房の処分帳をみたが、前欠である。死亡する直前のもので、嫡子定経の出家をうけてのものである。最後の四人が定経の男子(資経・経兼・為定・乙若丸)でその前に経房娘の子滋野井実宣と、定経娘の夫葉室光親なので、一部前欠となっている部分は定経の室に対する譲与であろう。
 周防国石国庄は一期の後に実宣に譲るとあり、前欠の部分にあったはずの薗山庄も定経室の一期後に嫡孫資経に譲られることになっていたと思われる。後白河院とその父鳥羽院、その子高倉院に関係する所領(周防国石国庄、河内国高瀬庄、紀伊国平田庄、安房国郡房庄内広瀬郷、下野国大内庄、美濃国平田庄内市俣郷等)が中心であるが、摂関家領(筑後国味木庄、伊勢国和田庄)や前回は無いとした元上西門院領(安芸国志芳庄)もみられた。
 また、前回、伯耆国宇多川東庄は経房の室の兄弟で、嫡子だった定経の室の父であった平親範の所領だとしたが、もう一ヶ所伯耆国稲積庄も親範領であった。親範は一二才であった久安四年(一一四八)正月に知行国主平範家(父)のもとで伯耆守となり、二期八年務めて保元元年正月に交替している。宇多川東庄と稲積庄の立券が行われたのは、この平範家が伯耆国知行国主であった八年間である可能性がある。または八年間の縁を頼って、退任後間もない時期になされたのではないか。範家は保元二年に従三位に叙せられ公卿となり、応保元年(一一六一)に四七才で死亡している。次いで平治元年(一一五九)から仁安元年(一一六六)にかけては親範の子基親が伯耆守となっている。基親の伯耆守就任時は九才であり、父親範が知行国主であった。
 経房処分状に安芸国志芳庄がみえ、当時は宰相中将旧室(参議兼左中将であった滋野井公時室のことであろう)が領家であった。彼女が不当な事を為し不孝ではあるが、所領は人の祐となるとして奪うことはせず、孫の為定を養子として一期の後譲るように申し聞かせたことを記している。

吉田家領薗山庄2

 ⑥の宇多川東庄については建保二年(一二一四)二月一七日平親範置文があり、資経の母方の祖父平親範の所領であった。これと日吉社領宇多川上下庄との関係は不明である。宇多川上下庄は僧心豪の相伝私領が、保元年中に日吉社に寄進されたもので、国免庄であったため国司の交替で停廃されたが、長寛元年頃に再寄進され、四至牓示が打たれた。次いで平親宗が国司になるとまたもや停廃されたが、平時忠から社領は停廃してはいけないとの命令が出された。承久二年には後鳥羽院が課していた造内裏役の免除を求めている。なお親範置文には平氏と藤原氏の関係者一六人が証判を押しており、その中に資通がみえている。⑤の常陸国信太庄は平頼盛が常陸守であった仁平元年一二月に頼盛の母宗子(池禅尼)が領家として美福門院庁に寄進して立券したものである。ただし吉田氏の立場は強いものではなく、建治二年一〇月一七日吉田経俊譲状には④がみえるが、安嘉門院が弘安四年に死亡して庄園の本家職が亀山上皇、後宇多上皇に伝領される中、④⑤の領家職は吉田氏の手を離れ、後醍醐天皇が即位した文保二年には後宇多上皇によって信太庄は東寺に寄進された。その途中の嘉元四年の昭慶門院領目録には④能美庄と⑤信太庄はみえるが、領家に関する記載はない。
 その一方で建治二年一〇月一七日後深草上皇院宣(鎌倉遺文は亀山上皇院宣とするが、奏者平時継からすれば後深草となる)によって、中御門経任から為方への加賀国井家庄の譲与が安堵されている。前述の吉田経俊処分状では井家庄は子坊城俊定に譲られており、矛盾するが、その関係は不明である。井家庄は宣陽門院領であり、後深草上皇が相続していた。経俊処分帳に薗山庄がみえないのは、兄で嫡子であった吉田為経に譲られていたためである。資経処分帳で都護分とあるのは、当時前中納言で正月一三日に按察使に補任されていた為経であった。為経に①と②のうちの上庄、③が譲られ、弟経俊には②のうちの下庄と④の本庄、⑤、⑥が譲られている。その外に高経、資継、資通の五人に分割されているが、多いのは為経と経俊であった。ただし為経は康元元年(一二五六)に四六才で死亡し、その跡は経藤、経任などが継承した。一方、経俊は建治二年に六二才で死亡している。当初、経俊は四才年上の兄為経に大きな差を付けられていたが、為経の死後、その跡を継承するかのように昇進し、後嵯峨・亀山院に重用された。

吉田家領薗山庄1

 出雲国薗山(神西)庄は吉田経房の所領であり、庄官への補任の仲介を頼まれた源頼朝が、経房への推薦状を書いたことでも知られている(『吾妻鏡』)。頼朝(一一四七年生)と経房(一一四二年生)の関係は両者ともに一〇代の頃、上西門院に仕えていたことがあった。そのため、薗山庄についても上西門院の母待賢門院領であり、上西門院から経房が領家職を与えられたと思い込んでいた。
 しかし、建長二年(一二五〇)六月二日付の経房嫡孫資経の処分状をみると、それが誤りであったことがわかる。経房の嫡子は定経であったが、参議に続いて従三位に除せられた正治元年に出家してしまい、これに怒った経房は嫡孫資経を自らの養子として後継者とした。定経には弟時経がいたが、系図には不孝逐電とある。また資経にも異母弟経賢(経兼)がおり、父定経の遺領をめぐり対立があったとされるが、経房領の主要部分は資経が譲られたとみてよかろう。
 その資経の処分状には庄園として①薗山庄以外に、②最勝光院領近江国湯次庄、③新熊野領摂津国小林上庄、④安嘉門院領安芸国能美庄、⑤同領常陸国信太庄、⑥宣陽門院領伯耆国宇多川東庄、⑦法性寺殿御領伊勢国和田庄、⑧延勝寺領筑前国穂並庄がみえるが、②③⑥⑦⑧はいずれも後白河領であり、④⑤は資経の代に所労に対して安嘉門院から与えられたものである。資経が祖父経房から譲られた所領の多くは後白河院から領家職を与えられたものである。これに対して薗山庄のみは本家が記されておらず、経房が寄進を受けて本家・領家の立場にあった吉田氏の本領というべきものであった。承久の乱では出雲国神西庄司太郎が東国御家人渋谷又太郎に討ち取られており、この結果、新恩地頭として古庄氏と海瀬氏が補任され、入部した。

2018年3月19日 (月)

来海庄と大原庄の庄園領主2

 ただし、長倫の養子となった光兼については系図には長倫の父光輔の従兄弟大学頭安成の子とするが、公卿補任は大学頭藤原成信子とする。後者を前提とすると、成信の系譜上の位置づけは未確認だが、その活動が活動できるのは建暦二年までであり、九条道家の父良経(一二〇六年没)の歌会の常連であった(蔭木英雄「中世初期縉紳漢文学概観-菅原為長をてがかりに-」、『相愛大学相愛女子短期大学研究論集.国文・家政学科編』三一、一九八四)。長倫は九条家家司であり、同じ学問の家として養子に迎えたのだろう。また家倫の父兼倫が三位であったのは弘安一一年から永仁二年(従二位に)までであり、永仁四年に正二位に進んだ後、正安元年(一二九九)に七三才で死亡しており、厳密には嘉元四年時点の「京極三位」は確認できない。正確には「京極三位跡」である。家倫も兼倫六七才と晩年の子で従三位に除されたのは康永二年である。家倫には猶子敦継もいるが、これも従三位に除せられたのは延慶三年(一三一〇)である。
 前述のように長倫は九条家家司であり、藤原式家としては藤原純友の乱平定に関わった忠文以来二八五年ぶりの公卿であった。そして養子光兼-兼倫-家倫の三代は二位に進み、大原庄領家に比定した兼倫は太政大臣三条公房の孫娘(実平女子)を室とし、その間に生まれたのが家倫であった。光兼は寛元元年に東宮学士(後深草)となり、兼倫もまた建治元年に東宮学士(伏見)となっている。当時の大原庄は安嘉門院領であり、こうしたことをきっかけとして大原庄領家職を獲得したのではないか。
 これに対して来海庄については史料を欠くが、庄内に永嘉門院に養育された邦良親王の子邦世親王に始まる柳原宮(土御門宮)に関する記録・伝承が残っている(赤坂恒明「柳原宮考-大覚寺統の土御門宮家-」、『ぶい&ぶい』二七、二〇一四)。その一つ明応五年九月一五日弘長寺文書目録には「譲状 至徳弐年乙丑卯月日御判有之 佐々木三河守殿ニ参、至徳二年三月廿七日土御門之御奉行在判」とあり、前文書との関係は不明だが、後文書は至徳二年時点で土御門宮が来海庄の本家ないしは領家の地位にあったことを示すものであろう。

来海庄と大原庄の庄園領主1

 来海庄と大原庄は安元二年(一一七六)二月日八条院領目録と嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院御領目録にみえる。前者は前欠があるが、来海が歓喜光院領、大原庄が庁分領という点では後者とも共通している。八条院領は母美福門院領が子八条院に譲られたものが中核となっている。歓喜光院は美福門院の御願寺として永治元年(一一四一)2月21日に創建、そこに寄進された所領が歓喜光院領である。一方で美福門院庁の所領も大量に寄進された。大原庄は文永八年(一二七一)杵築大社三月会結番帳にみえる大東庄と同一のものであろう。
 来海庄と大原庄も一二世紀半ばの成立であろう。そこで意味を持ったのが、一一四〇年代半ばから院が死亡する永暦元年(一一六〇)の時期の隠岐国守が美福門院関係者で占められていたことである。それ以前に、崇徳院の側近藤原資憲が隠岐国司を務める中、院の御願寺である成勝寺に所領が寄進されたのも同じ図式である。
 来海庄の領家に関する史料はないが、大原庄については嘉元四年の目録に領家として「京極三位」がみえる。一三世紀前半には島根郡末次保を東福寺に寄進した摂関家家司藤原長倫が「京極三位」と呼ばれている。平安京の京極の地に屋敷があったためであろう。一四世紀半ばに「京極三位」と呼ばれている藤原家倫は長倫の曾孫である。長倫には後継者となりうる男子がなかったため、同じ藤原明衡に始まる学者の一流から光兼と基長という二人の養子を迎えている。それ以外にも所領末次保については長倫の前譲状を帯しているとして五辻三位(忠継)が訴えたが、朝廷は文永五年(一二六八)五月一四日にその主張に謂われがないわけではないとして光兼の子兼倫(従四位下、四二才)の知行を停止し、忠継に宝治本家下文に任せて相伝することを命じている。勝訴した忠継は生年・年齢が不詳だが経歴をその子と比較すると承久年間頃の生まれであろう。同年一〇月五日には出家しているが、一方で同年には後醍醐の母忠子が誕生している。

2018年3月17日 (土)

杵築大社領の本家と領家9

 兼嗣には異母兄良嗣がいたが、こちらは持明院保家の娘が母であり、領家職を継承する権利はなかった。主張したくても、こちらの子孫も不振であった。良嗣は従三位に除せられたが非参議であり、弘長三年には出家してしまい、その子の出世は困難となった。そのため、一〇才前後であった男子は六〇才以上年の離れた持明院基保の養子となって保藤と名乗り、正二位権中納言まで進んだ。出家後に生まれた男子は姉が嫁いでいた一条家経の猶子となって冬房と名乗り、正二位権中納言まで進んだ。いずれにせよ兼嗣の有した杵築大社領領家を継承できる人物がいなかったため、兼嗣は五辻氏に寄進した。恐らくは他の所領も。
 一旦は領家の地位を失った兼嗣がその地位を回復したことは、正和三年七月一六日に兼嗣が杵築大社を構成する御崎社検校に補任していることからもわかる。ただ、可能性としては裁判の相手と所領を折半した可能性もある。兼嗣が千家村を寄進した五辻親氏は兼嗣の二年前に死亡している。その嫡子とみられる兼親も系図によれば早世したとある。大姫宮と思われる女性も後醍醐の皇太子となった子の邦良親王は南北朝の動乱に翻弄されて皇位に就くことはなく、その子邦世親王とその子孫が土御門宮ないしは柳原宮と呼ばれて存続したが、永徳年間には将軍義満との関係を強めた山科家により所領を奪われてしまい、何度か訴えたが事態に変化はなかったと思われる。
 柳原宮は本家職を相伝して杵築社領一二郷の遙勘郷、鳥屋郷、千家郷、富郷、石塚郷、伊志見郷とその附属地である南別所、北別所、佐木浦、傍田郷、小浜等の返還を求めたが、室町末期に山科家が支配していたのも遙勘郷、鳥屋郷、千家郷、富郷、石塚郷、伊志見郷であった。問題は一二郷の残り半分の行方であるが、南北朝期の半済令に基づき(あるいは不当に)、幕府(五山の塔頭に寄進されたものもあり)・守護の支配下に入ったと思われる。その中に北島村が含まれていたため、幕府・守護領を奪取した戦国大名尼子氏は国造北島氏に対してより強力な支配権を行使した。

杵築大社領の本家と領家8

 永嘉門院による杵築社領支配は正安三年からとしたが、二〇〇四年の論文では元亨三年以降としていた。今回は兼嗣が五辻氏に千家村を寄進したのは、五辻氏が後醍醐天皇のみならず、後二条天皇の子邦良とも関係を有していたためだとしたが、やはり前回の論文で述べた論拠の方が優先し、元亨三年に永嘉門院が室町院領に先立って承明門院領の返還を求め、認められたとの結論がよさそうである。すでに永嘉門院が杵築社領の本家であれば、その関係者にその一部である千家村の領家職を寄進するのは不自然である。ただし、永嘉門院が本家職の正統な後継者であることと、大覚寺統との関係を重視して、兼嗣は五辻親氏に千家村を与える約束をしたと思われる。
 前回の補足はこれぐらいにして、今回の主たるテーマは応永三〇年五月日柳原宮雑掌定勝申状に述べられた山科氏が永徳年中に六〇年以上不知行であった所領を将軍との関係を背景に由緒を主張し、認められた点について検討する。
 永徳年中の時点で六〇年間以上不知行とあったとすると、それは領家兼嗣が文保元年三月三日に七九才で死亡して以来ということだろう。山科家が主張したのは山科氏初代実教の室が杵築大社領家藤原光隆の娘であったことである。ただし、光隆の娘を母とするのは公頼と公長であり、永徳年中に綸旨を掠取った教繁は実教の猶子教成の五代後の子孫でしかなく、相続を主張する権利はなかった。その意味で柳原宮側の批判は正しい。ただし公頼・公長の子孫は間もなく公卿が出なくなり、教繁がその関係者から文書を得たのかもしれない。
 問題は兼嗣の死によりなぜ不知行となったかである。兼嗣の子では、前に述べた大江広元の孫藤原実春の娘を母とする嫡子兼輔が正安二年に従三位に叙任され正和二年八月には参議に補任されたが、「平座不参」により翌三年九月には参議を止められてしまった。それ以降、文保元年に正二位に除されるまでの四年間は無官であった。兼嗣の死はこの翌年である。なお理由は不明だが、正和元年に兼輔は父の兼の字を捨てて通輔と改名している。
 兼輔の嫡子となった兼藤は永仁五年の生まれである。こちらも正和五年には忠嗣と改名しているが、二六才であった元亨二年一二月に右中将を解却され、七年後の元徳元年に還任するまでは無官であった。兼嗣が領家職の一部を有力者に寄進したこととともに。兼嗣の子・孫が不本意な状況にあったことも領家職を失った原因であった。

2018年3月16日 (金)

杵築大社領の本家と領家7

 安嘉門院は父から膨大な八条院領を譲られていたが、弘安六年九月四日に七四才で死亡した。安嘉門院領はその猶子となっていた亀山上皇が取得したが、旧承明門院領は、亀山上皇の猶子となっていた宗尊親王の遺児瑞子女王に与えられた可能性が高い。三才で父と死別した瑞子は土御門姫君と呼ばれたように土御門殿で育てられた。宗尊親王が誕生したのは父後嵯峨が天皇に即位した直後であり、その時点では承明門院は六三才でなお健在であった。
 とは言え、瑞子は一三才でしかなく、承明門院領支配の実権は亀山上皇が握っており、杵築大社領についてもその関係者が領家に補任された。それまでの領家松殿兼嗣の権利は否定されたのである。これに対して兼嗣は代々継承してきた領家職は本家が変わっても自由に改替できないと主張して自らの権利と主張して裁判を起こしたが、当面は新領家が杵築大社領の支配を行った。幕府で裁判が行われていた。その結果を示す史料は残っていないが、亀山上皇を相手とする裁判で兼嗣が勝利することは困難であったと思われる。
 父宗尊親王は室町院の猶子となりその遺領を譲られることになっていた。正安二年に室町院が死亡したため、その相続問題が起きたが、一旦は瑞子が半分を相続し、残りの半分は亀山上皇と後深草上皇で折半することとなった。ところが、瑞子は亀山の猶子でその子後宇多の後宮に入っていたため、後深草上皇が大覚寺統に有利だとして異論を述べ、結果としては 正安四年には室町院領全体が亀山と後深草で折半された。ただし承明門院分は瑞子が実権を持つようになったと思われる。また同年に瑞子は准三后となり永嘉門院という院号を得た。
  前置きが長くなったが、松殿兼嗣が千家村を五辻殿とその関係者に譲ることを約束した嘉元四年の杵築大社領をめぐる状況は以上の通りであった。問題は五辻殿と大姫宮である。五辻氏といえば花山院家から分かれ、後醍醐天皇の母忠子と後伏見天皇の母経子を出したことで知られている。ただし忠子の父忠継、その子で経子の父経氏、さらには経氏の弟宗親はこれ以前に死亡しており「五辻殿」たりえない。これに対して宗親の子親氏と宗子が注目される。親氏の生年は不明だが、死亡したのは正和元年(一三一二)であり、嘉元四年・徳治二年には生存している。そして宗子は後二条天皇の後宮に入り、正安二年には第一皇子邦良親王を産んでいる。そして邦良親王は大覚寺統の正統として、文保二年に叔父後醍醐天皇が即位した際には皇太子となった。
 この邦良は九才で父後二条天皇が急死すると、祖父後宇多の後宮に入っていた永嘉門院の養子となった。永嘉門院の母は堀川具教の娘であり、後二条天皇の母もまた堀川氏の出身であった。すなわち、永嘉門院の母の従兄弟基具の養女(孫娘)であった。良嗣が千家村を譲った五辻殿とは五辻親氏であり、大姫宮とはその姉妹宗子であった。宗子の死後は惣領に戻すとは、親氏の嫡子兼親(早世したとされる)ないしはその後継者であろう。永嘉門院の養子で将来的には杵築大社領を継承し、天皇への即位も予想される邦良親王との関係を強化するために、兼嗣は千家村を五辻殿に譲ることとしたのである。
 最後に良嗣が領家に復帰したのは嘉元四年以前となる。一時的なものではなく、正和三年には杵築大社の下にあった御崎社検校を補任している。前述のように亀山上皇が実権を握っていた際はその関係者である御房や廊御方が領家に補任されたが、承明門院領の後継者である永嘉門院領となったことで、兼嗣が領家に復活したと考える。

杵築大社領の本家と領家6

 以前述べた内容について、ほぼ結論が出たので以下に述べる。
 嘉元四年(一三〇六)と翌徳治二年に出家して信照と名乗った松殿兼嗣が杵築大社領千家村を「五辻殿」へ一期分として譲り、その後は「大姫宮」へ進め、さらには大姫宮の後は惣領へ返すことを述べている(歴博所蔵田中家旧蔵文書)ことを紹介したことがある。なぜ信照はそのような事をしたのであろうか。
 兼嗣は母方の曾祖父藤原雅隆からその弟家隆に継承されていた杵築大社領家職を継承した。兼嗣の誕生は家隆が死亡した嘉禎三年の二年後であり、母から領家職を譲られた可能性が高いが、従三位公卿となった弘長元年には二三才であり、この頃から領家としての主導権を発揮するようになったと思われる。発給文書としては文永二年三月二〇日に、惣検校義孝からの幕府から安堵の下文を賜ってよいかとの申出に了解を与えたものが初見である。文永七年正月に杵築大社本殿等は焼失し、その再建が重要課題となったが、そこで兼嗣と義孝の関係が変化してくる。               領家家隆の時代に、国造家と神主(惣検校)職を争った出雲真高・実政父子が神主職補任を求めてきた。これに対して領家としての主導権を確保するため、兼嗣は国造義孝に代えて出雲実政を神主に起用した。ところが、国衙と社家が杵築大社造営を進めるための旧記は国造の下にしか保存してなく、当初は摂社である阿式社の例に基づき造営を開始したが、途中で知行国主・国守側から国造の所持する旧記の例に基づき造営せよとの命令が出された。ところが国造側が旧記を提出しないので、造営は遅々として進まなかった。また、実政が領家に対して不忠があったため、実政に代わって過去に神主としての経験を有するその父真高が神主に補任されたが、事態は変わらなかった。
 そのため幕府からは旧記を所持する国造を神主に補任すべきとの口入も行われた。国造は知行国主や幕府と結んでいたのである。結果として兼嗣は真高を解任して国造義孝を神主に補任した。これにより旧記に基づく造営が開始されたが、当時はモンゴル襲来の時期であり、国内の庄園・公領から造営の協力を得るのは困難であり、本殿の規模を縮小した上で弘安一〇年(一二八七)かその翌年に仮殿遷宮が行われたと思われる。
  続いて本格的な正殿遷宮が開始されたが、仮殿造営以上に困難であり進まなかった。そのため、宝治の正殿造営時と同様に幕府が朝廷に代わって造営を進めたが、国内の庄園・公領も疲弊しており、予定どおりには進まなかった。造営は国衙と杵築社領家により進められるが、神主職をめぐる対立とともに、領家をめぐる対立が出てきた。きっかけは弘安六年九月四日に本家であったと思われる安嘉門院が死亡し、亀山院が実質的支配者となったことである。杵築大社領は承久の乱に関わらなかった土御門院が本家であったため、乱の影響はほとんど受けなかった。ただ、土御門院が自発的に土佐への配流を望んだため、母である承明門院(在子)が本家となり、孫で、仁治三年に天皇として即位する後嵯峨を土御門殿で養育した。承明門院が正嘉元年七月五日に八六才で死亡すると、後高倉院の子安嘉門院領に組み込まれたと思われる。

2018年3月15日 (木)

徳大寺氏領長海新庄2

 問題となる上西院領分長海庄の内、新庄分領家職は徳大寺家が継承したが、本庄分については不明である。徳大寺氏と上西門院との関係は、徳大寺家初代の実能は上西門院の母待賢門院の同母兄である。同様に西園寺家の初代通季も同母兄であり、時期は特定できないが長海庄領家職は本庄は兄である西園寺氏、新庄は弟である徳大寺氏というふうに分割されたのではないか。というのは、西園寺氏二代目当主の公通は持明院氏初代の通基の娘を妻とし、その間に三代目当主実宗が誕生しているのである。実宗もまた母の兄弟持明院基家の娘を妻とし、その間に四代目当主公経が誕生している。このような西園寺家と持明院家の関係のもとで、長海本庄領家職は持明院氏が相続したのではないか。持明院通基は待賢門院官女で上西門院乳母となった女性を妻とし、その間に生まれたのが基家であった。基家もまた上西門院因幡を妻とし、その間に生まれたのが承久の乱後の出雲国知行国主であった家行の父基宗であった。家行の子家定が二階堂基行の娘を妻とし、その間に生まれたのが文永八年の長海本庄地頭持明院基盛であった。
 新庄が本所一円地とされた背景は不明であるが、本庄地頭基盛は領家職をも有していた可能性が高い。以前は本庄を関東御領ではないかとしたが、幕府が領家となる背景としては源頼朝が上西門院に仕えていたことがあるが、それだと新庄の説明ができない。今回は基盛は領家職を父家定から相続し、地頭職を幕府から補任されたとしたい。ただし家定も関東祗候の公家であり、地頭職もまた父から譲られた可能性もある。実際の長海本庄と新庄の支配を担ったのは出雲国守護佐々木氏であったと思われる。佐々木泰清が本庄で頓死したのはそのためであろう。本庄が関東御領との説の可能性も排除せずにおきたい。新庄については福田庄と同様、何らかの問題が生じて幕府が地頭を廃止した可能性もある。何度か記しているが、徳大寺氏三代目当主実定が死亡した際に、頼朝はため息をついて大変残念がったのである。

徳大寺氏領長海新庄1

 

大阪府河内長野市三日市町に毛利時親と楠木正成の像が完成し3月10日、現地で除幕式が行われた、との記事をみた。
 島根郡長海庄は承久三年頃の宣陽門院領目録に新御領の一つとして出雲国長海庄としてみえている。宣陽門院は後白河院第六皇女である。長海庄は文永八年段階では本庄と新庄に分かれていたが、それは目録作成以降のことになる。目録の庁分とは父後白河院が建立した持仏堂長講堂に集められた庄園である。これに対して後白河院の母待賢門院から姉上西門院を経由して後白河院分となったのが新御領三三ヶ所である。実際には庁分三四ヶ所より早く成立した所領が多いと思われる。この二つが宣陽門院領の中心となるが、それ以外に庄号はあっても年貢が納められていない庄園が四ヶ所、女房別当三位家領が五ヶ所、祈願所竹林寺と真如院に寄進された庄園が一二ヶ所あり、所領以外に後白河院第一皇女殷富門院御祈祷所が六ヶ所、その他の宗教施設が二ヶ所記されている。女房別当三位家とは藤原邦綱の娘綱子であり、摂関家家司から出発し、平家、後白河院とネットワークを広げた邦綱の活動を裏付けるものである。
 正和元年七月七日六波羅下知状案によると、文永八年杵築社三月会頭役結番注文には、島根郡長海新庄と大原郡福田(加茂)庄以外には地頭名が記されているが、この二ヶ所は本所一円地で地頭が補任されていないため、地頭の欄は空白となっている。ただし、頭役負担の対象として注文には入れられた。その後、一回目の福田庄が当番の際に賀茂神社が抵抗して頭役負担をしなかったため、二〇番体制から一九番体制に変更されたことについてはすでに述べた通りである。
 これに対して徳大寺氏領長海新庄は頭役負担を行っている。正確に言えば、本家宣陽門院、領家(本所)徳大寺家という本所一円地であった。本家宣陽門院は建長四年に死亡した。宣陽門院は養女で後堀河院の中宮であった近衛長子(鷹司院)に全所領を譲ろうとしたが、後嵯峨院の反対により、上西門院領のみ長子に譲り、残りは後深草院に譲られた(すべて長子とするものもある)。その後、紆余曲折はあるが、上西門院分は持明院統、残りは持明院統と大覚寺統で折半されたようである。自分で確認していないことと、論旨に関係ないので、本家の継承経過については今後の課題とする。

 

2018年3月14日 (水)

鎌倉中期以降の因幡国司3

 次いで因幡守としてみえるのは建治三年一二月一九日の長井泰重の子頼重である。弘安五年一二月六日の現任まで確認できる。頼重も父泰重同様、六波羅では探題に次ぐ地位にあった。次いで六年四月六日には藤原行通が因幡守に補任されているが、関係史料を確認出来ず、系図上の位置づけも不明である。弘安一一年(1288)三月二〇日因幡守奉書があり、大友親時が因幡守に現認していたことがわかる。正応五年二月五日には前因幡守と署名している。
 一方、『日本史総覧』は大日本史国郡表から正応元年二月に丹波成長が因幡守に補任されたとする。成長は弘安一一年二月一一日に因幡権守に補任され、正応五年二月に従五位上に除せられている以外に関係史料を確認出来ていない。正応二年四月二一日には伊藤某が因幡守に現任している。可能性としては在京人の御家人伊藤左衛門尉能兼ぐらいか。
 永仁二年(1294)一二月二四日に因幡守に補任されたのは文永年間の因幡守源師行の子雅行である。同五年七月二二日に去任となっている。乾元元年二月一六日と嘉元四年七月二五日には前因幡守藤原敦雄が確認出来る。嘉元元年(1303)正月二九日に因幡守に補任された藤原伊俊、延慶元年八月二四日に前因幡守高階某については関連情報を確認出来ていない。徳治三年八月三日の後宇多上皇譲状よると、因幡国は後嵯峨院(文永九年没)の代に亀山天皇分国と定められたとあるが、具体的な年次の確定はできていない。因幡守の任期が短くなる文永四年一二月補任の藤原憲俊からであろうか。出雲国は文永元年に後深草院の分国となっている。
 この後しばらく史料を欠くが、元亨元年(1321)一二月二九日には因幡守に藤原光雄が補任されている。これも関連史料未確認。同三年正月一三日には吉田経長の子資房が、一二月二九日には四条隆実の子隆資が因幡守に補任されている。資房は経長晩年の子で、因幡守補任時は二〇才であり、兄吉田定房が知行国主であった可能性がある。隆資は正中三年三月六日には周防守現任が確認出来る。隆資は父が早世したため祖父隆顕のもとで養育された。後醍醐天皇に登用され正中の変・元弘の変にも関わり、両朝分立後は南朝の公卿となるが、正平七年五月の男山の戦いで討死した。苦境に直面すると出家し、ほとぼりが冷めると還俗することを繰り返したため。四条河原の落書で批判された「還俗・自由出家」とは隆資のことだという。 嘉暦元年(1326)一一月二二日には宇多源氏五辻家源親直の子行直が因幡守に補任され、元徳元年一二月八日に去任しているが、知行国主については不明である。
  以上、因幡国についてとりあえずまとめたが、中宮の分国となったことや源通親流、九条道家や石清水八幡宮との関係。しばらく、特別な事が無い限りブログの記事の更新を休みます。これまでやった仕事の整理や家や地域の仕事を優先し、新たに気づいたことがあればアップするようにしたい。
(補足)後宇多院処分帳には因幡国がみえ、時期を特定できていないが、嵯峨天皇即位以後のある時期に因幡国が院分国となったことがわかり、前の原稿を修正した。

鎌倉中期以降の因幡国司2

 宝治元年(1247)五月二二日に因幡守現任が確認できる某広盛は知行国主久我通光のもとでの国守であろう。仁治三年一二月二五日に成功により右衛門尉に補任されている藤原広盛であろう。建長二年(1250)一〇月二四日には殿上人某長氏が因幡守であったが、知行国主は同年一一月一六日に現任している土御門顕定であった。顕定は同七年には出家して高野山に入った。建長七年一一月二〇日には西園寺公相が知行国主として現任している。正嘉元年(1257)五月一一日の日吉社小五月会流鏑馬には長井因幡前司泰重がみえる。泰重は大江広元の子時広の庶子で、嫡子泰秀が幕府で活動したのに対して、在京人として六波羅探題を拠点に活動し、探題に次ぐ六波羅評定衆筆頭であった。建長四年四月一日に新将軍宗尊親王を迎えた時点では長井左衛門大夫であり、因幡守補任はこれ以降のこととなる。因幡守となったのは祖父広元以来二人目である。
 同六月二二日には土御門通行の子通持が因幡守に補任され、正元元年(1259)五月一九日に止められるまで務めた。長井泰重に次いで因幡守となった某の後任と思われる。通持の後任は平顕兼であった。文永四年五月二〇日には因幡前司としてみえ、同五年六月一五日には使前因幡守とみえており、検非違使・北面系の人物であった。弘長元年(1261)一一月日後嵯峨院庁下文の署判者として因幡守藤原朝臣がみえる。文永四年一一月一六日には上北面としてみえる因幡前司藤原忠雄であり、顕兼の後任であろう。
 文永三年二月一日には源師行が因幡守に補任された。知行国主は中院通方の子雅家で、雅家の子が師行である。文永四年三月には雅家から重任の検注をやめて貞応取帳に任せて国務を行うべし旨を院宣で命じて欲しいとの申し出があったが、殿下(九条道家ヵ)によって却下されている。ここからすると雅家の知行国は師行補任前からとも考えられる。なお師行は文永一一年に石見国知行国主であった師重の兄弟である。
  文永四年一二月には藤原憲俊が、次いで文永五年一二月一六日には四条房名の養子隆名(藤原隆朝子)が因幡守に補任されたが、同七年正月二一日には去任となっている。文永八年九月二四日現任の某を挟んで文永九年七月一一日には行村流二階堂氏行久の子行清が因幡守に補任されたが、一〇日後の二一日は改任され行光流二階堂氏行泰の子行佐が補任された。ともにこの時点の幕府引付衆である。行佐の辞任時期は不明だが建治三年六月には没している。建治二年(1276)正月二三日には西園寺公相の子実俊が補任されており、その一方で関東評定伝では建治二年に行佐が因幡守現任としており、両者を矛盾無く理解するには建治二年正月に行佐から実俊に交替したことになる。実俊は補任時一七才であり、父公相が知行国主であった可能性が高い。

鎌倉中期以降の因幡国司1

 承久の乱の前後を通じて因幡国では中院通光が知行国主であった。それが嘉禄二年(1226)八月二九日に因幡国は中宮分国となり、二条定季の子盛季が因幡守に補任された。盛季は宝治元年には従三位に進んでいる。寛喜二年六月二五日には堀川具実が知行国主を辞退しているが、その背景は不明である。因幡守に補任されたのは藤原輔平の子教信で、安貞元年正月七日には従五位下に除せられ、四月二〇日には右近衛権少将に補任されているが、天福元年(1233)には高野山で出家している。源大納言(源定通ヵ)の婿に吹挙されながら実現しなかったことが原因とされる。
 寛喜三年四月一四日に因幡守に補任されたのは藤原親実の子親氏で、兄成実が大宰大弐を辞して自らが因幡国知行国主となり弟右少将親氏を因幡守にした。親氏は嘉禄二年四月一九日に正五位下に除せられ、寛喜二年閏正月四日には讃岐守に補任され、翌年に因幡守に遷任した。寛喜二年二月二七日には関白九条道家の家司としてみえる。貞永元年三月二五日の石清水若宮歌合の参加者として従四位下行右近衛権少将顕因幡守藤原朝臣親氏とみえている。『民経記』寛喜三年七月二五日条によると因幡国は近年八幡造営を理由に北野祭の負担を進済していないという。八幡宮造営料所に宛てられていたのだろう。文暦元年正月の時点でも知行国主は成実であったが、翌二年七月六日には九条道家御教書により因幡国務が石清水八幡宮別当法印御房宗清に寄附されている。道家の知行国を寄附したのであろう。
 嘉禎元年正月二三日には平時兼の子範綱が因幡守に補任されたが、因幡国は石清水八幡宮が知行国であった。嘉禎三年三月一〇日には摂政が九条道家から近衛兼経に交替しているが、範綱は家司職五名の中で職事に補任されている。そこでは従五位上守刑部権大輔平朝臣範綱と記されており、因幡守は退任していた。
 仁治元年閏一〇月二八日には橘業朝が因幡守に補任された。同二年正月八日に知行国主としてみえる堀川具実のもとでの国守であろう。業朝は貞永元年閏九月に二二社奉幣使が派遣された際には日吉社に派遣されている。仁治三年四月二四日に後嵯峨天皇即位に際して山陵使が派遣されているが、その中に後田邑に派遣された因幡守橘朝臣業清がみえるが、同族であろう。

2018年3月13日 (火)

鎌倉中期以降の伯耆国司3

 弘安五年八月七日には清原俊隆が伯耆守に補任されている。俊隆は「音博士俊隆真人」とも呼ばれ明経道の儒者清原俊隆である。平安後期の頼業から仲隆-教隆-俊隆と古典の学説が継承されていた。北条実時の子顕時も俊隆から借用した古典を書写している(佐藤道生「伝授と筆耕-呉三郎入道の事蹟」)。知行国主は宮内卿=前参議正三位藤原経業で、これまた日野氏で信盛の子で、経業の甥が親顕である。『勘仲記』正応二年(1289)一月二三日にも伯耆守親顕がやって来たことが記されており、親顕が再度伯耆守に補任された可能性がある。
 永仁五年(1297)一二月一七日には藤原隆有が伯耆守に補任されたが、六才であり父で三一才の隆政が知行国主であった可能性が高い。正安二年(1300)閏七月八日に伯耆国知行国主として現任している菅原在兼は在嗣の子である。九月一〇日まで伯耆守であった藤原光時と翌三年正月一六日に伯耆守に現任している定孝については関係史料がなく不明であるが、光時は在兼のもとでの国守であった可能性がある。しかし四月五日には和気敦長が、一〇月五日には橘知尚が伯耆守に補任されているように短期間で交替している。翌三年四月五日には和気敦長が伯耆守に補任されているが、系譜上の位置づけは不明である。
 正安三年一〇月五日には橘知尚が伯耆守に補任された。弘安七年~正応元年には父知嗣が知行国主である丹波国の国守であったが今回は不明である。ちなみに同年二月に知行国主は近衛実香から左中弁吉田定房に交替している。嘉元元年正月九日に伯耆前司とみえる重泰は元応元年ヵ七月一三日吉田中納言家(定房)奉行所奉書にも前伯耆守重泰として署判を加えている。系譜上の位置づけは不明である。定房は元応元年一〇月二七日に前権中納言から権大納言に昇進している。
 嘉元元年(1303)年五月一八日に伯耆守に補任された藤原実益は二〇才であり、永仁四年正月五日に従三位となった父公頼が知行国主とも思われたが(公頼の祖父公清は三条実国の子であった)、一方では嘉元二年に比定できる四月九日洞院実泰書状では実泰が二月七日後宇多上皇院宣をうけて伯耆国山守庄について青蓮院禅師御房に安堵しており、実泰が伯耆国知行国主であったと思われる。実益と実泰の関係は不明だが、公頼の子は実豊・実益と二人とも「実」の字を付け、実泰の子は公賢・公敏・公泰と「公」を付け、末子で長子公賢の養子になった実守のみが例外である(基本的に父ではなく祖父の一字を付けている)。
 年未詳六月一日堀川具守御教書では、伯耆国山田別宮に関する按察大納言(実泰)の御教書を石清水側の竹権別当僧都御房に伝えている。『鳥取県史』では正安五年から嘉元三年までのものと推定している。堀川具守が大納言で、洞院実泰が按察使(権大納言)という組み合わせが可能なのは乾元二年(一三〇三、正安は四年まで)から延慶二年(一三〇九)までである。これに実泰が伯耆国知行国主であったと思われる嘉元元年五月一八日から嘉元三年一二月三〇日を併せて考えると、嘉元元年から三年までのものと比定すべきであろう。
 嘉元三年一二月三〇日に伯耆守に補任された藤原時賢は清原俊隆と同様の学問の家に生まれた人物である。宮内庁書陵部には彼が元亨四年に筆写した『白氏文集』が残っている(太田次男「宮内庁書陵部蔵本白氏文集真楽府元亨写本について」)。
 以上、未だ十分に史料そのものを確認していないものもあるが、まとめてみた。院分国などにはなっていないようである。 一方でよく知られている日野氏から途中で分岐した日野氏一族が伯耆国支配に関わっていた。出雲国とは違っている。

鎌倉中期以降の伯耆国司2

  光平の後任と思われるのが建長五年(1253)一二月二二日の時点で伯耆守に現認している為俊である。編纂所の中世記録人名索引データベース(経俊卿記)では中御門為俊に比定しているが、この時点で為俊の父経任が二一才であり成り立たない。幕府に祗候する公家の一人遠藤為俊であろう。貞応二年(1223)には北条政子の使者としてみえ、寛元三年(1245)五月に幕府の使者が上洛した際に、『平戸記』の筆者平経高が複数の人物と情報を交換しているが、その一人に遠藤右衛門尉為俊がみえる。仁治元年正月二六日条では経高は「関東住人右衛門尉為俊」と呼んでおり、在京人となり、六波羅と鎌倉の間をつないでいたのだろう。宝治元年正月五日には上北面上臈為俊とみえ、検非違使・北面系の人物であった。その娘が結婚した宇間左衛門尉も『吾妻鏡』に登場し、同様の性格を持ったと思われる。
 その後しばらくは史料がみえないが、文永元年六月一一日勧学院別当宣や同年並びに翌年の藤氏長者宣(前者は二条良実、後者は一条実経)の奏者として前伯耆守式房がみえる。系譜上の位置づけは確認できていないが、文暦元年(1234)一二月一一日内蔵頭殿(右大弁堀川光俊)奉書の奏者としてみえる左衛門尉式房も同一人物であろう。式房は検非違使・北面系の人で、有力貴族の執事的役割を果たしていた人物であったが、主人との関係は流動的であり、文永年間には摂関家のうち九条系とつながりがあった。
 文永二年五月五日の新大納言藤原顕朝拝賀の前駆殿上人には伯耆前司資通と前伯耆守為頼がみえている(民経記)。前者は後述の吉田資通であろう。後者は建長六年七月二日に北野神輿功により右衛門尉に補任された藤原為頼と同一人物で検非違使系の人物であろう。両者とも正確な在任期間は不明である。
 文永三年(1266)年九月二六日に補任されたのが中原行実で同四年までの現任は確認できるが、翌五年一〇月二四日には前伯耆守行実とみえる。二年後の文永七年八月二一日には再び伯耆守行実と記されているので、復任した可能性はある。下北面、検非違使大夫尉ともみえている。
 文永年間後半の伯耆守は不明である。前述の文永一一年の安嘉門院政所下文の署判者に前伯耆守藤原朝臣とあるのは吉田資通である。弘安二年(1279)七月三日に伯耆守に補任された親顕は日野氏流藤原信盛の兄弟親業の子である。この時点で二一才であり、父親業が知行国司であった可能性がある。翌弘安三年の御幸始めの供奉人として前伯耆守経雄がみえる、日野俊国の子であるが、『公卿補任』をみるかぎり文永六年三月二七日に因幡大掾に補任されているのみで伯耆国との関係は確認できない。弘安七年二月日二位家政所下文の別当として前伯耆守藤原某がみえるが、比定はできない(民経記の記事を加筆)。

鎌倉中期以降の伯耆国司1

 『鳥取県史』のリストの基準がよくわからないが、概略を確認する。
 承久の乱後に補任された藤原尹輔については前述のように不明であるが、交替していることは、前任者が承久の乱により失脚した可能性が強いことを示している。安貞元年(1227)一二月二五日には源盛朝が伯耆守に補任されているが、系譜上の位置づけは不明である。承久三年正月五日には右兵衛府に関わる人物として源朝臣盛朝がみえ、天福元年(1233)
四月二三日には馬寮使右馬助盛朝がみえ、検非違使・北面系の人物であろう。
 寛喜三年(1231)四月一四日には藤原親泰が伯耆守に補任されている。知行国主はそれまで下総国を与えられていた九条良平にかわって子の高実である。同年一一月九日の時点の現任も確認できる。天福元年四月八日には藤原業茂が伯耆守に補任された。安貞元年一〇月二一日には中宮権少進、建長二年五月二日には木工権頭とみえ、検非違使・北面系の人物ではない。知行国主は権中納言日野家光であったが、嘉禎二年(一二三六)一二月一四日には死亡しており、これによって国守も交代したはずである。
 仁治元年(1240)一〇月二四日に伯耆守に補任されたのは吉田資経の子資通である。知行国主は兄吉田為経が寛元元年一一月一一日に現任している。宝治元年(1247)五月九日には伯耆前司資通とみえ、退任していたことがわかる。文永一一年一二月日と弘安元年(1278)八月日の安嘉門院政所下文の署判者として前伯耆守藤原朝臣がみえる。資通との注記があり、在任から三〇年以上経過しているが正しいと思われる。安嘉門院は父後高倉院と母持明院基家の間に生まれ、膨大な八条院領を相続していた。文永一一年の別当は三条公親であり、弘安二年の別当は久我通基であった。久我氏は通基の祖父が後室の一人西蓮に所領の大半を譲ったため、これ意向は別の後室安嘉門院左衛門督局が継承した平頼盛領がその中心となった。資通は弘安三年に従三位公卿に除せられた。
 宝治元年三月一六日には和泉国知行国主冷泉定頼が相博という形で伯耆に遷任された。それまでの伯耆国知行国主吉田為経は和泉国へ遷任している。一一月二八日には平光平が伯耆守に現任している。桓武平氏桓平の子で、光平の曾祖父維綱の子顕綱が三重氏の、良平が杉原氏の祖となり、両方とも六波羅探題の奉行人を出している。光平は杉原氏であるが、又従兄弟である三重政平は周防守となり、その娘は太政大臣土御門定実の室となり雅房を生んでいる。宝治元年一一月五日大宰府守護所下文写にみえる前伯耆守家朝(前年一一月日に譲状作成)が伯耆守であった時期については不明である。

2018年3月12日 (月)

鎌倉初期の因幡国司

 大江広元の因幡守補任は元暦元年九月一八日であり、その時点で知行国主が源通親であったことはすでに述べたとおりである。翌年正月に源義経が殿上人として院内に出仕した際に大井実春が大江広元の因幡国目代として飯垸を勤めた。守護という名称が使われたかどうかの問題はあるが、広元が少なからず平家方の武士がいた因幡国に幕府方として派遣され、現地でその実務を担ったのが大井実春であった。
 広元は文治元年六月二九日に因幡守を辞任し、半年後の一二月二九日に通親の子堀川通具が因幡守に補任され、建久元年正月の重任、同五年正月の延任をへて翌六年二月二日に辞任した。後任はこれも通親の子中院通方で、建仁元年一二月二二日に止任となっった。この間の知行国主は通親であろう。通方の後任の因幡守の名前は不明だが、通方本人は翌建仁二年四月一五日には伊予守に遷任している。伊予国では文治元年一二月二七日に九条兼実が知行国主となりその関係者が国守であったが、建久七年一一月には兼実が関白を罷免され失脚しており、伊予国知行国主の交替も時間の問題ではなかったか。翌建久八年六月一一日には源通具が伊予守に補任されており、父通親が知行国主の地位を得たと思われる。通親は建仁二年一〇月二一日に死亡しており、これに伴い知行国主には後鳥羽側近の藤原宗行が補任された。正治二年三月六日補任の源宗雅、建仁二年四月一五日補任の伊予守某の時点の知行国主も通親であろう。
 因幡国知行国主も通親の死により交替したはずである。建仁三年正月一八日に藤原宗嗣が因幡守に補任されている。宗行の兄弟宗方の子であるが、宗行の養子となっていた。知行国主は宗行であろう。その後、宗行は承元二年(1208)八月には伯耆国知行国主に転じているが、その後任は不明である。建保三年(1215)六月一四日には通親の子久我通光が因幡国知行国主であった。通光は通親の三男であるが母が後鳥羽院乳母藤原範子で、異父姉が土御門天皇の母となったため、嫡子として扱われた。承久の乱の影響を受けることなく嘉禄二年八月二九日の時点でも知行国主であった。伯耆国で言及した『吾妻鏡』建保六年六月二七日条にみえる「前因幡守源師憲」は通光知行国下の因幡守であろう。

鎌倉初期の伯耆国司3

 経高現任の翌建保四年六月二〇日には藤原忠行の子経季が伯耆守に補任された。一六才であり父忠行が知行国主であろうか。曾祖父季行が因幡守であったことは前述のとおり。祖父重季は建久年間に知行国主九条兼実ヵのもとで隠岐守を務めた。経季は嘉禄二年正月に従四位下、安貞三年正月に従四位上に除されているが、いずれも宣陽門院御給とあり、後白河の娘宣陽門院との関係を有していた。
 経季が承久元年(1219)一一月一三日に伯耆守を得替した後の伯耆守は不明である。同年正月に源実朝が右大臣拝賀のため訪れた鶴岡八幡宮で暗殺された。その参加者に「前伯耆守親時」がみえるが、他に関連史料がない。『承久記』では伯耆前司師憲が実朝とともに斬られたとするが、因幡前司師憲と情報が錯綜している。半年前の建保六年六月二七日に勅使が鎌倉を訪れた際の行列の殿上人一行の中に前因幡守師憲がみえることからすると、前伯耆守親時ではなく前因幡守師憲が正しいと思われる。ただし、師憲についても関連史料はない。
 次に伯耆守の名がわかるのは承久の乱後に補任された藤原尹輔である。前任者ないしは知行国主が承久の乱との関わりで失脚したことが考えられるが、その具体的名前と、後任の尹輔については不明である。

鎌倉初期の伯耆国司2

 伯耆守に戻ると、元久年間の源盛忠をへて承元二年八月一三日には藤原行隆の子行時が伯耆守に補任されている。知行国主はその兄弟で葉室宗頼の養子になっていた宗行である。
建久五年に安芸守に補任されたのは養父宗頼の申出によるものであった。その母は元八条院女房越前であり建久九年正月五日に従五位上に除せられたのは中宮給(九条兼実の子宜秋門院)であった。養父宗頼は九条兼実の「執行家司」であった。建仁元年(1201)一二月二二日に出雲守に補任されたが、翌年一〇月二九日には伊予守に遷任している。知行国主は養父宗頼であろうが、建仁三年正月二九日に死亡している。
 宗行のその後の昇進は遅れていたが、承元二年(1208)に伯耆国知行国主となったのは、この少し前から後鳥羽院との関係を深めていたことぐらいしか頭に浮かばない。元久元年四月一四日に権右中弁、建暦元年(1211)正月一八日には右中弁、九月八日には左中弁、一〇月一三日には右大弁、翌二年一二月三〇日には蔵人頭と急ピッチで昇進し、建保二年(1214)一二月一日に正四位下参議に進んだ。建保六年には正三位・権中納言となったが、承久の乱の首謀者として鎌倉に護送途中の駿河国で斬られた。その女子には花山院忠経の室となったものがあった。
 建保三年五月三〇日には『平戸記』の筆者平経高が伯耆守(知行国主の誤りであった。鎌二一六二)としてみえる。朝儀・公事に関して高い見識を有し、政務に練達した人物として知られ、建暦元年(1211)正月には鳥羽院・順徳天皇という体制のもとで右少弁に補せられ、承久二年正月には右大弁から順徳天皇の蔵人頭と、宗行と同様の昇進を示した。その一方で九条道家や土御門定通との関係を有した。承久の乱では失脚することなく、元仁元年(1224)一二月二一日に従三位公卿となり、嘉禄二年(1226)には参議に補任された。

鎌倉初期の伯耆国司1

 鎌倉初期の伯耆守は知行国主中山忠親のもとでその子忠明が務めていたが、建久三年(1192)七月一二日に忠明が尾張守に遷任し、藤原家信が伯耆守に補任された。近江と相博とあり、文治元年一二月二七日の補任により知行国主である父雅長のもとで近江守であった。親子の関係は伯耆国でも同様である。七条院(後鳥羽院母)女房堀河局(美作前司家長娘)を母とするためか、正治元年一一月、建仁三年一二月、承元四年正月にはいずれも七条院御給として従五位上→正五位下→従四位上に除されている(建永元年正月の従四位下は臨時給)。建保元年には土御門天皇中宮陰明門院御給で正四位下に除せられた。雅長-家信は院近臣であり、系図には雅長女子の中で三名が七条院女房と記されている。
 建久七年(1196)一二月二五日には父である知行国主藤原親信のもとで三〇才の子仲経が伯耆守に補任されている。正治元年(1199)一月一〇日に兼内蔵頭に補せられた仲経が同年六月二三日伯耆守を止められ、これに代わって同日に補任されたのが藤原済基であった。関係史料は殆ど未確認だが、建仁二年一〇月一四日には能登守に現任していた。済基は小一条流藤原済綱の子で、若狭守藤原親能の娘が母である。親能は御子左家藤原忠家の孫(藤原俊成もその孫)である。済基の姉妹が花山院兼雅の子家経の室となっており、正治元年六月22日には参議に進む家経(1174~1216)が知行国主ではないか。
 次いで元久二年正月三日に「前伯耆守源盛忠」がみえる。①寛喜元年一〇月五日に周防守に補任されている源盛忠と同一人物ではないか。②また貞応元年三月日右大臣徳大寺公継家政所下文の署判者前長門守源朝臣とも同一人物ではないか。盛忠はやはり北面系の人物で各地の国守を歴任しているが、長門守には二度補任されていることになる。承久の乱の直後に補任されていた場合、その知行国主は承久三年一一月一六日に現任している藤原国通となる。そして源盛忠は知行国主藤原国通のもとでの伯耆守であった可能性もある。
  国通は藤原泰通の子で健保六年の参議をへて権中納言まで進んだ。平賀朝雅が殺害され、北条時政が幽閉された後に牧の方は娘とともに京都に移り、娘は国通に再稼した。嘉禄三年には時政の一三回忌が国通邸で行われている。

2018年3月11日 (日)

院政期の伯耆国守5

 忠度の補任からわずか二ヶ月後の治承四年正月二八日には知行国主九条兼実、伯耆守藤原基輔の体制となった。基輔は難波(誤り、藤原に訂正)頼輔の子で九条家家司であった。仁安二年三月二〇日から承安元年一〇月九日には上総守としての現任が、治承元年七月一七日から伯耆守補任までは美作守であったことが確認でき、いずれも知行国主は九条兼実であった。平氏政権で新たな関白となった故藤原基実の子基通は二一才で経験が不足していたため、叔父兼実に、その嫡子良通を優遇して補佐を求めた。
 治承四年九月二三日には伯耆国庄園四ヶ所を停廃する宣旨が到来したことを知行国主兼実が記している。ただし庄号そのものは廃止せずに国に付けたようである。これに対して稲積庄(伯耆御厨)については信西入道の子静賢法印から後白河院に対して、元の如く院庁の沙汰にしてしかるべき人物に付けるべきだとの申し入れがあった。養和元年一一月五日には、後白河院宣で御厨は故建春門院領であるとして、国に付けたことは不当であることと、院中の収入が乏しいのでその年貢の一部のみでも院領にして他人に付けるべきこと述べ、勅定がなされるよう申し入れがなされたことに対して、兼実が甚だ奇異だが是非にあたわずと記している。
 寿永二年八月には平家の都落と源義仲の入京に伴う除目があり、基輔は安芸守に遷任し、保元三年補任の伯耆守源光宗の従兄弟にあたる光長が伯耆守に補任された。光長は美濃源氏の中心として検非違使に補任された。平家への反乱に関与したとして解官されたが、その後義仲軍とともに入京していた。その後義仲と後白河院の関係が悪化すると、一一月には義仲のクーデターが発生し、それに伴う戦闘で院方であった光長は戦死した。
 義仲のクーデターで伯耆守となったのは藤原昌隆の子親家で、その養父で『山塊記』の筆者である中山忠親が知行国主となった。その後の義仲の失脚で交替した可能性もあるが、史料が未確認である。『史料総覧』では文治元年九月二四日の時点で中山忠親(予)が伯耆国知行国主である(山塊記)とするが、『県史』に輯録された山塊記には当該記事が含まれていない。ただし、『吾妻鏡』建久三年七月一二日には忠親の子忠明が尾張守に補任された記事がみえるが、そこには「元伯耆守」とある。『史料総覧』では伯耆守から尾張守に遷任したと解釈しているが、その当否はともかく鎌倉初期に忠明が父忠親のもとで伯耆守であったことは確実であろう。

暴走列島3

 以下の文章は3月8日の時点で書いたもので、最新の情報が反映されていないのはそのためである。自分としては問題ないが、理解していない人にとっては過激すぎると思いアップしなかった。最初に補足の一文を加え、字句の一部を修正したが、財務省の文書のように本質に関わる変更ではない。
 日本には外交・政治・経済の重要案件があるのに、なぜこの問題で時間をとるのかとの声があるが、それは日本の最高責任者に向けられるべき批判だ。自分が能力がなく、人間的にも最低なことは本人も自覚していよう。重責を担うどころの人間ではないのは証明されていた。よく韓国側と合意してもゴールが動かされるとの批判をするが、投了すべき場面でも「まだまだ」と言って時間稼ぎをしているのは誰か。「嘘をついていることがばれるとは夢にも思わなかった」などという言い訳は言語道断である。韓国で大統領が辞職に追い込まれたケースと同じである。昨年二月の時点で投了し、時間をかけて新たなリーダーを選ぶべきだった。これまでの延長線上で、党内二番目の候補が代役に選ばれるようなことは避けなければならない。本当は福島の事故が起きた際に解党すべきであった政党が今存在すること自体が許されない。今からでも遅くないので、解党して一から心有る人物が新しい複数の政党を作るべきである。他の政党もそれに併せて解党し本来の再編が必要である。
 最高責任者として行った政策をきちんと検証すればすべてが失格である。円安に導いた功績があるという意見があろうが、前政権が続いていても円安になる状況であったことも明らかとなっている。プラスアルファーの円安をもたらしたが、円安にも程度があり、程度が大きければ得をする人もいれば損をする人もいる。両方を検証すれば、多数の人々にはマイナスだった。たたけばたたくほど日本列島へ降り注ぐ太陽の光を遮断するほど膨大なホコリが出るだろう。それほど愚か者による私物化が進んでいる。人材の劣化が進んでいるというのは、これほどの愚か者をまだ利用可能だとして擁護する人がいることでわかるが、ブレーキをかけないと、どうにもならなくなる。
 日産・マツダはどうにもならなくなって外国人社長に再建を委ねた。とりあえず倒産は免れたが、そのプラス・マイナスは微妙である。特に日産の場合はルノーより規模が大きいのに、ルノーの都合を優先して自動車開発を行わなければならない羽目に追い込まれている。
 現在の日本の政界はプロ野球の監督なみに、実力の検証がないままに指導者が選ばれている。最近では西宮市長の例がそれを示している。投票を行う前に候補者の見識・実力・人間性が白昼にさらされるようなシステムを作らなければならない。いわんや最高責任者は人間としての実を確認した上で、その結果を反映しての指名でなければ意味がない。無法者(アウトロー)は少なくとも公の世界からは駆除されなければならない。戦争という手段はなくなったが、それと同程度の反省に基づいて行動しないと、日本社会は終わってしまう。愚か者たちは海外へ逃げだせばよいだろうが、大多数の人々はこの日本列島で生活していくしかない。

2018年3月10日 (土)

院政期の伯耆国守4

 光保は藤原信頼・源義朝のクーデターに参加した。後白河院政派の藤原信西入道が殺害されると葉室惟方などとともに平清盛と合流して、信頼・義朝方を破った。しかし二条天皇方としての行動が後白河院の反発を招き、永暦元年(1160)六月には後白河の命を狙ったとの罪で子光宗とともに逮捕され、薩摩国に配流され、現地で殺害された。
 基親は仁安元年(1166)八月二七日に交替するまで二期八年間にわたり伯耆守であったが、そこにどの理由があったのかは明らかではない。出雲国では重任して一宮の遷宮を行うことになっていた(就任時九才であり、父親範が知行国主であった)。
 基親の後任の伯耆守に補任された平国盛は平清盛の弟教盛の子である。仁安元年には七才であるため、父教盛ないしは平氏一族の中心人物が知行国主であったと思われる。崇徳上皇の側近として保元の乱での敗北により出家した日野資憲の娘が母である。翌二年二月七日には伯耆国は後白河の寵愛を受け高倉天皇を生んだ建春門院平滋子(平時信の娘)の分国(そのもとに知行国主平時忠がいた)とされ、その異母弟親宗が国守とされた。それが嘉応元年(1171)二月二日に葉室宗頼が伯耆国守に補任された。保延二年から五年にかけて分国主である父顕頼のもとで国守を務めた光頼はすでに出家しており、養父成頼が知行国主であろうか。その後任は安元元年九月一三日に伯耆守の現任が確認できる平時家であろうか。知行国主は時家の父平時忠であろう。ところが、治承三年一一月に反平氏の意向を前面に出した後白河院に対して平清盛が福原から上洛して院を幽閉するクーデターを断行した。この際に、建春門院の実家であった平氏一族も解官されている。伯耆国守が一一月一八日に清盛の異母弟忠度に交替したのはそのためであった。
 伯耆国は中国地方では平家の知行国となった期間が最も長いと思われるが、史料の不足から現段階ではその影響を明らかにすることができない。後日この時期の伯耆国の政治史について別の角度から検討したい。なお『鳥取県史』の史料リストには久寿元年の伯耆守にも葉室宗頼を記すという錯誤がある。

院政期の伯耆国守3

 『長秋記』長承三年(1134)八月一四日条には、待賢門院側の要求を受けて美福門院の関係者が院から勘当の扱いを受け、備後守と伯耆守としての国務が停止されたことが記されている。しかし備後守と伯耆守の後任としてみえるのは保延二年正月二二日に補任された藤原俊盛と藤原光頼であることから、五味氏は停止されたはずの国務が復活し、その後保延二年に交替したとした。備後守とは長実の子長親であり、伯耆守は同じく子である時通である。ただし、保延二年以降、美福門院の兄弟である長実の子たちは没落して知行国は没収され、その孫である長明・隆輔兄弟(長輔の子)と俊盛(顕盛の子)が美福門院の分国の国守としてみえる。
 これに対して『鳥取県史』史料編では備後守=藤原顕経、伯耆守=藤原顕盛との比定が記されている。顕経の国守補任は確認出来ず、顕盛の伯耆守現任が確認できるのは大治二年までで、その後、尾張守在任中の長承三年正月二五日に死没しており、『県史』には何らかの錯乱がみられる。
  光頼に続いて伯耆守としてみえるのは永治元年(1141)六月一三日の家保の子家長である。家保の子で最も出世し知行国を持った家成はこの時点で三五才で右衛門督であり、その兄とされ蔵人に補任されたのが家成の四年前である家長は四〇才前後か。父家保は保延二年に死亡しており、弟家成が知行国主とは考えにくく、伯耆守家長の時期には知行国主はいなかったか院分であった可能性が大きい。長承元年正月一九日には白河院の娘恂子内親王御給として従四位に除されている。伯耆守は重任して二期八年務めて久安三年(1147)一月二八日には美作守に遷任している。
 これに替わった平親範は久安四年にはまだ一二才であり、三五才の父範家が知行国主であろう。その後任については保元元年正月二七日に「高階仲経」が補任されたとする(兵範記)。他の史料では「高階仲綱」(山塊記)、「某仲継」と情報が混乱しており不明であるが、 保元の乱後の保元二年一〇月二二日の時点でも現任している。
 これに代わったのが摂津源氏の流れをひく美濃源氏源光保の子光宗である。光保は鳥羽院の北面から出世し、久寿元年には出雲守となった。保元の乱では後白河院方として勝利し、乱後は二条天皇親政派の中心人物となった。光宗は保元三年四月二日に伯耆守に補任されたが、平治の乱の半年前である平治元年閏五月二八日には出雲守から遷任してきた親範の子基親が伯耆守に補任されている。

院政期の伯耆国守2

 県史のリストでは次の関係史料は保延二年正月二三日に補任された葉室光頼であるが、五味氏の論文では大治二年(1227)一二月七日に備後守に補任されていた時通が、伯耆守藤原長親と相博したことが記されている。時通もまた長実の子で、長実の知行国であった備後国と伯耆国で国守が入れ替わったのである。
 五味氏の論文には『寺門高僧記』巻四が出典の一つにあげられており、編纂所のデータベースでその謄写本を確認すると、寺門(園城寺)が山門(延暦寺)により度々堂舎を焼かれた際の再建について述べてある。保安二年(1121)の焼失に対して、金堂造立のため加賀国を園城寺の長吏僧正に与えて、そのもとで西園寺(左衛門督)通季が僧正の旦那であったために国務を二期八年とったが、造営ができなかったために辞任したこと、その後加賀国に加えて長実の子時通に与えた備後国の国務で「一任」(一期)で造営を実現したことを記す。確認すると、保安二年閏四月に通季の弟季成が加賀守に補任されている。保安三年一二月に左衛門督に補任された通季が知行国主だったのだろう。次いで大治二年正月には院分国となった加賀国の国守に長実の弟家保の子家成が補任されている。
 時通の備後国補任は大治二年一二月であり、『寺門高僧記』の内容はほぼ事実を反映しているが、それとともに造営之功で国を賜う始めであるとも記している。次いで『寺門高僧記』には大治五年(1132)には参議長実卿に伯耆国を賜い、金堂・廻廊・三重塔を造営したが、講堂并塔は造らずと記している。 
 まとめると、長実の子長親の後任として同じく子である時通が伯耆守に補任され、長実の知行国としての伯耆国は維持された。それが変わるのは保延二年正月二二日の葉室光頼の伯耆守補任であった。光頼は保延五年一二月三〇日まで一期四年務めたが、知行国主は父顕頼であった。天仁元年の家光以降、光頼に至るまで伯耆国は常に院分国か院近臣(平正盛・藤原長実・顕頼)の知行国であった。とりあえずはここまで。

院政期の伯耆国守1

 このことについては『鳥取県史』資料編古代中世2古記録編に関係史料のリストが掲載され、状況の把握がしやすくなったので、それに基づき、まとめてみたい。『日本史総覧』Ⅱ中世一・古代二の一覧表ならびに、五味文彦氏『院政期社会の研究』の関係論文も参照した。
 白河院が初めて主導権を持って行った天仁元年(1108)正月の除目で分国主白河院のもとで伯耆守に補任された藤原家光についてはすでに述べたので省略するが、現任の最終史料が永久二年(1114)一二月一八日のもので、後任と思われる高階為遠の補任は同四年(1116)正月である。『総覧』では後者については誤りかとし,県史のリストではその史料は掲載せず、永久五年一一月二六日には平忠盛が現任している史料を掲載している。そして県史のリストでは元永二年(1119)六月二八日には「藤原家光」が故人となっていることを示している。伯耆守を二期八年(1108~1116)務めて退任して間もなく死亡したと思われる。
  その後任は高階為遠ではなく、永久四年正月に正盛の子忠盛が伯耆守に補任されたとおもわれるが、二二才で初の国守である。忠盛は保安元年(1120)一一月二五日に越前守に遷任したが、父正盛は同年四月頃に死亡しており、忠盛は院分国のもとで越前守であった。次いで藤原顕盛が伯耆守に補任されたが、五味氏はこれを父長実の知行国とされた。院分と長実分が相博された。顕盛の父は長実、祖父は顕季で、ともに白河院の近臣として複数の知行国を認められていた。顕季(1123没)のもとでは長実が因幡守(院分)、尾張守(顕季分)、伊予守(顕季分)、播磨守(顕季分)、伊予守(顕季分)を務め、家保は越前守(白河院分)、丹波守(顕季分)、但馬守(顕季分)、播磨守(顕季分)、伊予守(分国主無)を務めた。
  顕盛の伯耆守の終見は大治二年一一月二〇日で、遷任した尾張守の初見が大治四年二月二四日なので、大治三年(1128)に伯耆守が交替した可能性が高い。顕盛は知行国主である父長実のもとで天治元年一二月二九日には重任し二期八年務め、後任は天承元年(1131)一月一九日にみえる某長親である。長親もまた長実の子であり、知行国主は継続された。

2018年3月 8日 (木)

出雲守藤原能盛の在任期間2

 季能は同年六月二八日にはこれも後白河院分国とされた讃岐国の国守となった。讃岐国は安元二年七月八日に建春門院が死亡するまではその院分国であった。その死後の讃岐国の扱いや国守については不明である。これに対して周防国の扱いであるが、国守となった藤原能盛が後白河院の近臣で、治承三年一一月一七日に平家のクーデターにより解官されていることからして、院分国は継続していたであろう。前任の出雲国はながらく藤原朝方の知行国であり、その子が国守であったが、何故かこれを院分国として能盛を出雲守に補任したのであろう。能盛は治承元年正月二八日に出雲守を退任し、半年後に讃岐守に遷任した季能の跡を受けて周防守に補任されたと考えられる。そしてこれを受けて石見守であった藤原朝定が出雲守に復帰し、父朝方が出雲国知行国主の地位を取り戻した。次いで治承四年末に任期四年が終了したが、杵築社造営が終了しないとして、翌五年三月六日に重任宣旨を得ている。月二八日に出雲守から周防守に遷任したと考えられる。そしてこれを受けて石見守であった藤原朝定が出雲守に復帰し、父朝方が出雲国知行国主の地位を取り戻した。石見国についても承安元年(1171)一二月八日に藤原有定が国守に補任されており、藤原朝定が出雲守に遷任した後の治承二年八月二四日には藤原致頼の現任が確認できる。ただし、致頼は治承三年正月六日と寿永元年八月一日に現任している能頼と同一人物であろう。この時点の知行国主藤原光雅は能頼の姉妹を妻としている。能頼の前任の有定は能頼の従兄弟であり、承安元年から寿永元年までの石見国は光雅の知行国であった。
以上を整理すると以下のようになる。(治承元年正月を当初の記載から修正した)
                   出雲守(分国主)   石見守(分国主)  周防守(分国主)
承安四年1174正月二一日~ 藤原能盛(後白河) 藤原朝定(父朝方) 源有房ヵ(無ヵ)
治承元年1177正月二八日~ 藤原朝定(父朝方) 藤原能頼ヵ(光雅) 藤原季能(後白河)
治承元年1177六月二八日~ 藤原朝定(父朝方) 藤原能頼ヵ(光雅) 藤原能盛(後白河)
                    養和元年重任    寿永元年現任    治承三年解官
                    寿永二年死亡

出雲守藤原能盛の在任期間1

 能盛は承安四年(1174)正月二一日に出雲守に補任されたことは確認できるが、問題はいつまで出雲守であったかである。安元二年(1176)四月二七日時点の現任については問題ないが、同年一〇月日出雲国司庁宣については、後に作成されたもので、その扱いには注意が必要である。
 この問題を考える材料としては、能盛に押し出される形で石見守に補任された藤原朝定の動向がある。承安四年正月二二日に石見守に補任されている某が朝定であることは問題がない。
重任 宣旨、出雲守朝定、大社修造未其功、件国去年秩満也、可載除目歟、然而得替年宣下有例之由隆職称之(治承五年三月六日、雲州重任申文=解に対するもの、『吉記』)
 藤原季能は嘉応元年(1169)一二月三〇日~治承元年(1177)正月二八日まで遠江国守でここから周防守に遷任。安元元年(1175)九月一八日から治承三年(1179)正月六日まで、知行国主として父藤原俊盛の現任が確認できる。同日に現任が確認でき、養和元年三月二九日にも補任(重任ヵ)されている藤原盛実も、俊盛の子であり、遠江国が俊盛の知行国である状態は続いていた。これに対して季能は新たに周防守に補任された。周防国知行国主は父俊盛ではなく後白河院であった。周防守の前任は安元元年(1175)九月一三日以降に現任が確認できる源有房であるが、父師行は美福門院との関係(従兄弟)で鳥羽院政で登用されたが、有房は平治の乱で藤原信頼方となり一時的に解任された後に復活したものである。父師行はすでに亡くなっており、本人も四〇代半ばであるので、院分国や知行国ではなかったと思われる。それが季能を起用した時点で後白河の院分国とされたのだろう。

隠岐守藤原惟頼と重頼

 すでにみたように、保元二年正月二四日に隠岐守に補任された源雅範までは美福門院の分国として関係者が隠岐守に補任されていた。それが院が永暦元年一一月(一一六〇)二三日に死亡したことにより、後白河院とその寵愛を受けた建春門院の関係者が隠岐守に起用されるようになった。その建春門院も安元二年(一一七六)七月八日に死亡し、それ以降は後白河院の関係者が隠岐守となった。
 藤原惟頼が隠岐守となったのは建春門院が死亡する半年前であった。惟頼は隠岐守補任以前に佐渡守と丹波国の国司に補任されており、佐渡守は従兄弟である藤原重頼の後任であった。すなわち重頼は永万元年末に日向守から佐渡守に遷任し、承安二年(一一七二)二月一〇日の時点でも佐渡守であった。これに対して惟頼は承安四年正月二一日に佐渡守に補任されている。重頼の父重方と惟頼の父頼佐は兄弟で、その父は顕能であった。
 重頼の経歴は美福門院の養子となった二条天皇とのかかわりが深い(中村文「藤原重頼をめぐって」(埼玉学園大学紀要・人間学部篇16、2016年)。後白河は二条の父として形ばかりの即位を行ったが、二条が早世したため、建春門院が生んだ高倉を天皇として院政を行った。
 惟頼は平清盛の娘盛子と結婚した摂政藤原基実が死亡した直後の仁安元年(一一六六)八月二七日に丹波守に補任され、一一月一四日には従五位上に叙されている(史料大成本は雅頼とするが、史料総覧稿本による)。仁安三年八月二七日の時点では丹波前司とみえ、後白河上皇女宮の家司に任ぜられているように、後白河院との関係がうかがわれる。仁安二年五月一九日には相模と丹波が相博されており、相模守藤原盛頼が丹波守に遷任している。惟頼の丹波守の前任藤原盛隆と藤原盛頼の後任の相模守藤原有隆はともに院近臣顕時の子であることから、五味文彦氏は惟頼が国司に補任された丹波国は相模国とともに藤原顕時の知行国であったと推定している。顕時は因幡守在任中に死亡した藤原長隆の子で、二条天皇と深い関わりを持ったが、その死後は後白河のもとで出世し、権中納言に進んだ。
 藤原盛頼は家成の子で後白河院の近臣成親や西光の弟である。盛頼の後任の丹波守は成親の子成経であるため、この時期には成親が丹波国知行国主であった。盛頼が成親・西光等が首謀者であった鹿ヶ谷の陰謀により失脚したため、その娘は母方の祖父俊成の養女となった(八条院三条)。
 安元二年(一一七六)正月三〇日に隠岐守に補任されていた惟頼も後白河院との関係を持つ人物であった。治承三年(一一七九)一〇月二五日の時点でも隠岐守現任が確認できる。同年一一月一四日の平家によるクーデターや寿永二年一一月の義仲のクーデターで解官された可能性はあるが、まもなく復活したと思われる。この惟頼の後任として後白河院が送り込んだのが源仲国であった。
 仲国も高倉院の腹心として小督の探索にあたっているが、治承二年六月二七日には惟頼の従兄弟である藤原重頼邸で小督が生んだ範子内親王が賀茂斎院に卜定されている。重頼は源頼政の子等と行動をともにし、鎌倉の頼朝のもとに赴いてその家臣として活動している。そうした中で従兄弟である隠岐守惟頼と結んで平家没官領・謀反人跡の地頭となったのだろう。 

2018年3月 6日 (火)

知行国主の有無2

 出雲守に補任された藤原顕頼は一五才で、父顕隆が坊官賞として補任されるのを子に譲った形となった。顕隆の同母兄為隆と同母弟長隆は摂関家との関係が深かったが、顕隆は院との関係が強かった。顕頼の祖父為隆が知行国主であったとの説もあるが、三七才の父顕隆が知行国主であろう。因幡守には顕隆の同母弟長隆が補任された。三〇才前後であったと思われ、五味氏は父為隆が知行国主であったとされるが、いなかったであろう。
 但馬守には源義親の乱を鎮圧した功により平正盛が補任された。隠岐守・若狭守・因幡守をへてのものであり、知行国主はいなかったであろう。尾張守に補任された高階為遠は、阿波守に続いて伯耆守を二期八年務め、そこから遷任して尾張守となった。宗忠は春に御祈物を献じたことで尾張守に遷任とコメントしている。その後、永久五年には丹後守に補任されている。知行国主はいなかったであろう。
 淡路守に補任された藤原兼平は出雲守、和泉守への補任を経て淡路守となった。淡路守の後任藤原輔明は院分国のもとでの補任であったが、兼平の時点では知行国主はいなかったであろう。伊豆守に補任された中原宗政は尊勝寺の功で補任されたが、院庁主典代ということもあって同じ功の人々を含めて上臈一〇人を越えての抜擢であった。知行国主はいなかったであろう。
 安房守に補任された藤原師国は寛治二年には佐渡前司とみえるように、国司は経験済みであったので、宗忠は「六位国に任中一で補任」とコメントした。二度目で小国はおかしいとの意味であろう。知行国主はいなかったと思われる。薩摩守に補任された藤原為綱は検非違使から下って(位階が下の)薩摩守になるのは順番が違うとコメントした。北面からの補任で、知行国主はいなかったであろう。
 以上一四例を見たが、白河院分国1、堀河院分国1、藤原顕隆の知行国が1で、その他の11ヶ国は知行国主はいなかったと思われる。これが白河院政の実質的開始の状況であった。

知行国主の有無1

 院分国との違いを含めて知行国には不明な点が多い。院分国も治天の君の場合とその他の院(女院)とでは異なり、後者は知行国と同じではないか。治天の君の分国の場合は税を含めて収入となるが、それ以外は税は政府に納めた上で収入を得たのであろう。それでもすべてが知行国となっては国司の人事を含めて困難となるので、『中右記』大治四年(一一二九)年七月一八日条にみえるように、白河院のもとでは三〇余国が、近臣や女院に配分した知行国の数であろう。白河は七月七日に死亡しておりその最末期の状況であろう。後に平家がクーデターにより知行国を独占した際も六〇余ヶ国の半分に越えたりとあったように、半分強が知行国とする数の限度ではなかったか(両統分立までは)。
 天仁元年(一一〇八)正月、白河院が政治の実権を掌握して初めての除目が行われ、一四ヶ国の国司が補任されている。この中で伯耆国のみは白河院分国であったことが記されているが、他の一三ヶ国の中で知行国がどの程度あったであろうか。
 摂津守に補任された源広綱については、藤原宗忠が「式部・従四位上君(公)達で最下国に成り尤も不便」とコメントしている。同年一一月二八日に六一才で死亡しており、知行国主はいなかったと思われる。駿河守に補任された平為俊は検非違使で院に祗候していたため「宜き国に成り不穏便」と宗忠がコメントしている。翌年一〇月五日に為俊が白河院に馬一〇疋と牛一〇頭を献上しているのも院との密接な関係を示していよう。年齢は不詳だが院の北面から国守になった人々は自ら国務をとることが多かったと五味文彦氏が述べているように、知行国主はいなかったであろう。甲斐守に補任された藤原師季は五〇才で院の祗候人(北面)であった。七年間に亘って甲斐守であったが、天永二年一〇月五日には白河院に馬一〇余疋を献上している。これも知行国主はいなかったであろう。
 伯耆守橘家光については唯一の白河院分国下での国守であった。永長元年(一〇九六)には淡路守であったが、この時点の淡路国も院分国であった可能性が大きい。永久五年(一一一七)には平正盛の子忠盛が現任しているが、この年には二二才で初の国守であり、父正盛が知行国主であった可能性がある。
 堀河院分である信濃守には白河院蔵人一臈大江広房が補任されたが、宗忠は「広房の前任の頭である道明朝臣が受領を希望したのに、現在の蔵人である広房を起用したのは会釈無き事か」と批判的にコメントしている。広房は学問の家に生まれ大江匡房の養子となり大江姓を使用していたが、後に本来の橘姓に戻している。康和五年(一一〇三)に蔵人に補任されている。天永二年に美濃国に向かう途中の下野守源明国と私闘となり殺害されたが、年齢は不詳である。
付記:信濃守大江広房に関する記述を修正した。

2018年3月 3日 (土)

暴走列島2

 その意味では天皇制も次の天皇で終わりにすれば、助かる人は多いであろう。時間をかけないと弊害も出るので配慮が必要だが、民主国家なら可能である。そのように決めれば活発な議論が行われる。過去には必要性があったので天皇制が生まれ、その後も続いてきたが、現在は必要はない。誰が天皇を演じたいと思うだろうか。それが問題の本質である。
 将棋の世界では、今日の時点で藤井聡太六段がレーティングでは一一位で、トップテンどころかトップも視野に入ってきた。一方で永世竜王と永世棋王の資格を持つ渡辺九段がA級から陥落し、マスコミではこれを「波乱」と表現した。前にも述べたように、ここ二年の渡辺九段は絶不調で、今日現在のレーティングでは一六位なので、当然の結果である。ただし、今後の復活は十分ありうるであろう。一位で絶好調と思われた豊島八段がここ一〇戦で5勝5敗とブレーキが掛かり、状況は混沌としてきた。藤井六段とは79ポイントの差でしかない。ちなみに藤井六段は今年度になり231ポイント増である。将棋の中身はわからないので、絶対的な強者がいないのか、それとも沢山居すぎるのかの判断は難しいが、恐らく前者であろう。
 将棋界は世襲など不可能な世界である。渡辺九段とともにA級から陥落した行方八段は2015年の名人挑戦者であった。現佐藤名人も一年前は一位であったのが、現在は一〇位である。AIの登場で指手が多様化したのも問題の背景の一つであろう。自分が予期しなかった手を相手が打つことが珍しくないようだ。去年の三浦九段の問題もその不安から生まれた問題だった。三浦九段は特例でA級残留を認められたが、今年は四月一四日の復帰以来22勝14敗とまずまずの成績で、A級を実力で残留した。レーティングでは一三位である。A級に残留したベテラン棋士にはレーティングで二七位という方もいるが、公務で忙しいためで、例外だろう。囲碁の棋士で50代で棋聖6連覇を果たした藤沢秀行九段はタイトル戦となると別人のような集中力であったとされるが、そんな例はなかなかない。
 東京都が大成建設・鹿島建設を指名停止にしたが、大林組と清水建設は入っていない。前者は談合を否認し逮捕されたが、後者は談合を認めた。逆ではないか。後者は指名停止にし、前者からは都が聞き取りを行ってから判断すべきではないか。これもトップが愚か者だからであろう。自らに批判が向かないための愚かな行為であり、これまたブレーキがきかないのである。

暴走列島1

 房総半島は実際の地名だが、北朝鮮と同様に暴走しているのが現在の日本である。トップが自分のためだけに予算を使っているのは、日本と北朝鮮だ。そして暴走する愚か者の周辺にも自分の利権を守りたい多数の愚か者がいる。これが現状である。
 アメリカにも暴走する大統領がいるが、ここにはそれなりのブレーキがあるので、希望が残されている。日本はとにかく支持率を下げないために、株価の操作が行われている。そのために大量の税金や保険料、日銀の資金が流用・私物化されている。周辺の愚か者もまた株価が下がらないことを最大の願いとしているので愚か者政権が続くことを願っている。日本の人材の劣化が著しいのはこのためである。北朝鮮でも一方で金総書記の怒りを買うことを恐れつつ、利権の維持を望む多くの愚か者がいる。
 ブレーキの壊れたダンプカーとはスタン・ハンセンのニックネームだったが、限られたリングの世界ならよいが、政治・経済界のトップでは黙視できない。日本の政治のシステムはその意味で再検討が必要だ。物価上昇率2%という達成不可能な目標を日銀総裁が寝言のようにつぶやいているが、日々買い物をしている身からすると、生活必需品の価格上昇は2%上昇というレベルではない。例を引けば輸入品の牛肉・豚肉は黒田総裁就任時からすると20%は上昇している。牛丼の値段が上昇したのは人件費とともに輸入牛肉の価格上昇も影響している。その一方で所得が減っているため、全体の上昇率が上がらないのだろうが、それで不利益を受けている多数の人がいる。
 選手を引退してすぐに監督となるような日本のプロ野球界はこれまたスポーツの世界では異常であろう。相撲界だけでなくレスリングでもパワハラが問題となっているが、体制の改革が必要だ。歌舞伎界・落語会も世襲をやめればもっとレベルが上がることは確実である。以前、世襲が不可能な例として囲碁の家元に生まれながら、本因坊道策に歯が立たず、その結果としてもう一つの世界である天文方としてある意味では道策以上の成果を上げた安井算哲の例をあげた。その息子には天文方は務まらなかったのである。現在とは異なり複数の女性が子を産むことが珍しくなかった時代でもこうである。

2018年3月 1日 (木)

鎌倉中期以降の隠岐国司2

 代々官務(左大史上首)を務めた小槻氏は、鎌倉時代初期に小槻永業を祖とする大宮官務家と弟の小槻隆職を祖とする壬生官務家に分裂して官務の地位を争った。季継は永業の曾孫にあたる。元仁元年(一二二四)に壬生官務家の小槻国宗(隆職の子)が没したのち官務の地位に就くと、九条道家と結んで壬生官務家に押されがちであった大宮官務家の基礎を固め、以後死去まで二一年間にわたってその地位を保った。この間に修理東大寺大仏長官・備前権介・紀伊守・筑前守を兼任している。また、摂関家九条家の家司を務めた。この秀継の子が秀氏で『左大史小槻季継記』の著者である。
 正応五年四月一三日の除目では隠岐守に藤原憲房が補任されたが、正安二年二月二五日には某敦盛に交替している。ともにこれ以外の史料を欠いており、系譜上の位置づけは不明である。正安元年七月一一日北条貞時書状には隠岐前司がみえる。霜月騒動で没した二階堂景行の子泰行である。次いで同二年一一月二四日には藤原雅任が補任されたが、これも翌三年三月一四日には尾張守に遷任し、同年四月五日には藤原基貞が補任された。以上のように四年任期を全うする例はほとんどなく、短期間で交替している。元亨三年(一三二三)一〇月二六日の北条貞時一三年供養記には佐々木隠岐前司(清高)がみえている。建治元年の隠岐守佐々木時清の嫡孫である。
佐々木義清  一二二七.三~一二二八.五以前   不明
藤原業俊   一二四〇.一~
中原景資   一二四五.一二~一二四六.閏四   後嵯峨院ヵ
某      一二四六.閏四~
源親平    一二五六.一〇~                源資平
二階堂行氏  一二六一.七
藤原広能   一二六七.一一
佐々木時清  一二七〇.一~
二階堂行景  一二八〇.一〇~
三善盛時   一二八三.七~                  洞院公守ヵ
大夫将監時通 一二八六.四~                  藤原兼仲
某清成    ~一二八八.一以前             
源能憲    一二八八.二~一二八八.三   堀川顕世
小槻秀氏   一二八八.三~一二九〇.一二~ 堀川顕世
藤原憲房   一二九二.四~
二階堂泰行  ~一二九九.七以前
某敦盛    ~一三〇〇.二~
藤原雅任   一三〇〇.一一~一三〇一.三
藤原基貞   一三〇一.四~
平秀度    ~一三〇二.八月以前
佐々木清高  ~一三二三.一〇以前

鎌倉中期以降の隠岐国司1

  守護佐々木義清は安貞元年(一二二七)三月一一日に隠岐守に補任され、翌年五月の時点では前隠岐守となり交替していた。後任については不明である。
 仁治元年(一二四〇)正月二二日の除目で隠岐守に補任されたのは藤原業俊であった。系図上の位置づけは不明だが、寛喜三年三月二五日の除目では下野守に補任され、嘉禎元年九月日近衛家実政所下文には前下野守藤原朝臣と署判しており、この時点で下野守を退任していたこと、近衛家と関係があったことがわかる。
 寛元三年(一二四五)一二月一八日の除目で隠岐守に補任されれた中原景資は、天福元年四月には中務丞に補任され、仁治元年一二月一八日には従五位下に進んでいた。後嵯峨院の主典代であり、殿上人として後院庁別納所年預を務めているように実務に精通した役人である。但し隠岐守補任の翌寛元四年閏四月二七日には死亡している。
 康元元年(一二五六)一〇月二三日に隠岐守に補任された源親平は正元元年に侍従に補任された時点でもなお幼少であり、実権は知行国主である父資平(四〇才)が持ったと思われる。資平は村上源氏である顕氏の子で、後嵯峨天皇の即位により日の当たる立場になったとされる。
 弘長元年(一二六一)七月二一日には幕府の有力御家人二階堂行氏が隠岐守に補任されている。建保六年に隠岐守に補任された行村の孫である。行村の子孫は隠岐氏を称する。行村の子元村(基村)の娘が関東祗候公家の持明院家定との間に生んだのが基盛であることは別の場所で述べた。
 文永四年(一二六七)一一月一〇日の除目で隠岐守に補任されたのは藤原広能であった。元検非違使であり、その子広義、孫広有は隠岐氏を称し二条家の家司として活動した。広有は建武元年には怪鳥を退治して因幡国内で大規模庄園二ヶ所を与えられている。幕府御家人波多野左衛門尉広能との関係は不明である。続いて文永七年(一二七〇)一月二一日には隠岐国守護源(佐々木)時清が隠岐守に補任されているが、建治元年(一二七五)には前隠岐守となっている。
 弘安三年(一二八〇)一〇月には幕府評定衆二階堂行景が隠岐守に補任されているが、同六年七月二三日の時点で前隠岐守となっている。行景は弘安八年の霜月騒動で安達泰盛方として討たれた。そして同六年七月二〇日に隠岐守に補任されたのが三善盛時であった。正応三年(一二九〇)九月四日に内大臣洞院公守が後深草院御所に参った際に、前駆として(三善)盛時が堀川光世とともにみえている。弘安九年四月二七日に勘仲記の筆者藤原兼仲が隠岐国知行国主に補任され、国守には大夫将監時通を起用している。弘安一一年一月一三日に前隠岐守とみえる某清成は時通の後任か。 
 弘安一一年二月七日に蔵人大輔(堀川顕世)が院宣(参議奉)で隠岐国を拝領し、それを二月二七日に左衛門少尉頼□を奏者とする国宣で在庁に伝えている。隠岐守には当初源能憲が補任されたが、三月六日には従四位下小槻宿祢秀氏が兼職として補任された。能憲については他の史料がなく不明である。秀氏の隠岐守現任は『勘仲記』正応二年四月一三日、一〇月三〇日条で確認でき、一〇月三〇日には藤原兼仲を修理右宮城使左中弁に補任する伏見天皇宣旨の奏者としてみえる。正応三年一二月 日  関白前右大臣〈近衛家基〉政所下の署判者として別当中宮亮平(仲兼、石見国知行国主にも)、造興福寺長官右大弁兼春宮亮藤原朝臣(兼仲)、修理東大寺大仏長官左大史兼隠岐守小槻宿祢(秀氏)がみえる。

鎌倉末期の石見国司

  堀川光世以降の石見国司であるが、徳治三年(一三〇八)、元亨四年(一三二四)の文書が残っている小山石見守関係文書の扱いに苦慮している。阿波国勝浦新庄などの預所肥後守経家が、海賊の出入りに関する幕府と六波羅の文書を拝見し、これを触れ申すことを小山石見守に約束しているが、具体的人物の比定はできず、石見守がどのような立場の人かも不明である。石見守については他の史料との整合性に問題がある。徳治三年はともかく、元亨四年の石見守は後述の四条隆持である。
 延慶三年(一三一〇)一〇月三日に丹波黒田宮祢宜職を補任している預所石見守吉綱も同様であるが、元応元年一一月一八日に播磨国大山寺鎮守権現に四季八講料田一所を寄進している地頭御代官吉綱との関係が問題となる。預所吉綱の花押は未確認なので現段階では断定はできない。国司を務めた人物が公卿が地頭である所領の代官となることは幕末ではそう珍しいことではない。」
 応長元年(一三一一)三月一九日に大江景繁の石見守現任が確認できる。景繁の一族は修理職年預となるとともに、西園寺家家司として活動している。景繁は永仁六年(一二九八)八月五日には左衛門尉大江景繁とみえ、元弘元年一〇月一七日には下北面とみえるように北面的要素も持っていた。公衡は応長元年八月二〇日に出家したが、死亡する正和四年迄は活動が確認できる。知行国主公衡のもとで景繁が国守であった可能性が高い。
 文保二年に比定される一二月二日前石見守□氏奉書があるが、未見で文書の性格・内容は不明なので、とりあえずあげておく。
 元亨三(一三二三)年から元徳二年(一三三〇)二月六日まで石見守であったのが四条隆持である。文保元年(一三一七)の生まれなので石見守に補任された時点では七才であり、知行国主は父隆有(一二九二~一三二九)であろう。隆有は隆政と高辻長成女子の間に生まれた。女子の兄弟清長の子長躬は出雲守であった。隆有は文保元年二月に従三位参議に進み公卿となったが、翌二年一〇月六日に参議を辞職した。元応二年(一三二〇)二月九日には正三位となったが、文保二年三月の即位新院給とあるように、後醍醐の即位により後宇多から与えられたものであった。
 嘉暦元年六月一八日に備前国長田庄本家職を寄進した前石見守繁成がいるが、四条隆持以前の石見守であろう。また、延元二年の陸奥国宣の奏者としてみえる前石見守についても不明である。

 

 

堀川光世   ~一三〇一以前   堀川光泰ヵ

 

小山経幸ヵ    ~一三〇八~   不明

 

某吉綱      ~一三一〇~   不明

 

大江景繁   一三一一~     西園寺公衡ヵ

 

某繁成     不明        不明

 

四条隆持   一三二三~一三二九  四条隆有

 

四条隆持   一三二九~一三三〇  大覚寺統系ヵ

 

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