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2018年3月17日 (土)

杵築大社領の本家と領家9

 兼嗣には異母兄良嗣がいたが、こちらは持明院保家の娘が母であり、領家職を継承する権利はなかった。主張したくても、こちらの子孫も不振であった。良嗣は従三位に除せられたが非参議であり、弘長三年には出家してしまい、その子の出世は困難となった。そのため、一〇才前後であった男子は六〇才以上年の離れた持明院基保の養子となって保藤と名乗り、正二位権中納言まで進んだ。出家後に生まれた男子は姉が嫁いでいた一条家経の猶子となって冬房と名乗り、正二位権中納言まで進んだ。いずれにせよ兼嗣の有した杵築大社領領家を継承できる人物がいなかったため、兼嗣は五辻氏に寄進した。恐らくは他の所領も。
 一旦は領家の地位を失った兼嗣がその地位を回復したことは、正和三年七月一六日に兼嗣が杵築大社を構成する御崎社検校に補任していることからもわかる。ただ、可能性としては裁判の相手と所領を折半した可能性もある。兼嗣が千家村を寄進した五辻親氏は兼嗣の二年前に死亡している。その嫡子とみられる兼親も系図によれば早世したとある。大姫宮と思われる女性も後醍醐の皇太子となった子の邦良親王は南北朝の動乱に翻弄されて皇位に就くことはなく、その子邦世親王とその子孫が土御門宮ないしは柳原宮と呼ばれて存続したが、永徳年間には将軍義満との関係を強めた山科家により所領を奪われてしまい、何度か訴えたが事態に変化はなかったと思われる。
 柳原宮は本家職を相伝して杵築社領一二郷の遙勘郷、鳥屋郷、千家郷、富郷、石塚郷、伊志見郷とその附属地である南別所、北別所、佐木浦、傍田郷、小浜等の返還を求めたが、室町末期に山科家が支配していたのも遙勘郷、鳥屋郷、千家郷、富郷、石塚郷、伊志見郷であった。問題は一二郷の残り半分の行方であるが、南北朝期の半済令に基づき(あるいは不当に)、幕府(五山の塔頭に寄進されたものもあり)・守護の支配下に入ったと思われる。その中に北島村が含まれていたため、幕府・守護領を奪取した戦国大名尼子氏は国造北島氏に対してより強力な支配権を行使した。

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