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2018年3月16日 (金)

杵築大社領の本家と領家7

 安嘉門院は父から膨大な八条院領を譲られていたが、弘安六年九月四日に七四才で死亡した。安嘉門院領はその猶子となっていた亀山上皇が取得したが、旧承明門院領は、亀山上皇の猶子となっていた宗尊親王の遺児瑞子女王に与えられた可能性が高い。三才で父と死別した瑞子は土御門姫君と呼ばれたように土御門殿で育てられた。宗尊親王が誕生したのは父後嵯峨が天皇に即位した直後であり、その時点では承明門院は六三才でなお健在であった。
 とは言え、瑞子は一三才でしかなく、承明門院領支配の実権は亀山上皇が握っており、杵築大社領についてもその関係者が領家に補任された。それまでの領家松殿兼嗣の権利は否定されたのである。これに対して兼嗣は代々継承してきた領家職は本家が変わっても自由に改替できないと主張して自らの権利と主張して裁判を起こしたが、当面は新領家が杵築大社領の支配を行った。幕府で裁判が行われていた。その結果を示す史料は残っていないが、亀山上皇を相手とする裁判で兼嗣が勝利することは困難であったと思われる。
 父宗尊親王は室町院の猶子となりその遺領を譲られることになっていた。正安二年に室町院が死亡したため、その相続問題が起きたが、一旦は瑞子が半分を相続し、残りの半分は亀山上皇と後深草上皇で折半することとなった。ところが、瑞子は亀山の猶子でその子後宇多の後宮に入っていたため、後深草上皇が大覚寺統に有利だとして異論を述べ、結果としては 正安四年には室町院領全体が亀山と後深草で折半された。ただし承明門院分は瑞子が実権を持つようになったと思われる。また同年に瑞子は准三后となり永嘉門院という院号を得た。
  前置きが長くなったが、松殿兼嗣が千家村を五辻殿とその関係者に譲ることを約束した嘉元四年の杵築大社領をめぐる状況は以上の通りであった。問題は五辻殿と大姫宮である。五辻氏といえば花山院家から分かれ、後醍醐天皇の母忠子と後伏見天皇の母経子を出したことで知られている。ただし忠子の父忠継、その子で経子の父経氏、さらには経氏の弟宗親はこれ以前に死亡しており「五辻殿」たりえない。これに対して宗親の子親氏と宗子が注目される。親氏の生年は不明だが、死亡したのは正和元年(一三一二)であり、嘉元四年・徳治二年には生存している。そして宗子は後二条天皇の後宮に入り、正安二年には第一皇子邦良親王を産んでいる。そして邦良親王は大覚寺統の正統として、文保二年に叔父後醍醐天皇が即位した際には皇太子となった。
 この邦良は九才で父後二条天皇が急死すると、祖父後宇多の後宮に入っていた永嘉門院の養子となった。永嘉門院の母は堀川具教の娘であり、後二条天皇の母もまた堀川氏の出身であった。すなわち、永嘉門院の母の従兄弟基具の養女(孫娘)であった。良嗣が千家村を譲った五辻殿とは五辻親氏であり、大姫宮とはその姉妹宗子であった。宗子の死後は惣領に戻すとは、親氏の嫡子兼親(早世したとされる)ないしはその後継者であろう。永嘉門院の養子で将来的には杵築大社領を継承し、天皇への即位も予想される邦良親王との関係を強化するために、兼嗣は千家村を五辻殿に譲ることとしたのである。
 最後に良嗣が領家に復帰したのは嘉元四年以前となる。一時的なものではなく、正和三年には杵築大社の下にあった御崎社検校を補任している。前述のように亀山上皇が実権を握っていた際はその関係者である御房や廊御方が領家に補任されたが、承明門院領の後継者である永嘉門院領となったことで、兼嗣が領家に復活したと考える。

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