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2018年3月17日 (土)

杵築大社領の本家と領家8

 永嘉門院による杵築社領支配は正安三年からとしたが、二〇〇四年の論文では元亨三年以降としていた。今回は兼嗣が五辻氏に千家村を寄進したのは、五辻氏が後醍醐天皇のみならず、後二条天皇の子邦良とも関係を有していたためだとしたが、やはり前回の論文で述べた論拠の方が優先し、元亨三年に永嘉門院が室町院領に先立って承明門院領の返還を求め、認められたとの結論がよさそうである。すでに永嘉門院が杵築社領の本家であれば、その関係者にその一部である千家村の領家職を寄進するのは不自然である。ただし、永嘉門院が本家職の正統な後継者であることと、大覚寺統との関係を重視して、兼嗣は五辻親氏に千家村を与える約束をしたと思われる。
 前回の補足はこれぐらいにして、今回の主たるテーマは応永三〇年五月日柳原宮雑掌定勝申状に述べられた山科氏が永徳年中に六〇年以上不知行であった所領を将軍との関係を背景に由緒を主張し、認められた点について検討する。
 永徳年中の時点で六〇年間以上不知行とあったとすると、それは領家兼嗣が文保元年三月三日に七九才で死亡して以来ということだろう。山科家が主張したのは山科氏初代実教の室が杵築大社領家藤原光隆の娘であったことである。ただし、光隆の娘を母とするのは公頼と公長であり、永徳年中に綸旨を掠取った教繁は実教の猶子教成の五代後の子孫でしかなく、相続を主張する権利はなかった。その意味で柳原宮側の批判は正しい。ただし公頼・公長の子孫は間もなく公卿が出なくなり、教繁がその関係者から文書を得たのかもしれない。
 問題は兼嗣の死によりなぜ不知行となったかである。兼嗣の子では、前に述べた大江広元の孫藤原実春の娘を母とする嫡子兼輔が正安二年に従三位に叙任され正和二年八月には参議に補任されたが、「平座不参」により翌三年九月には参議を止められてしまった。それ以降、文保元年に正二位に除されるまでの四年間は無官であった。兼嗣の死はこの翌年である。なお理由は不明だが、正和元年に兼輔は父の兼の字を捨てて通輔と改名している。
 兼輔の嫡子となった兼藤は永仁五年の生まれである。こちらも正和五年には忠嗣と改名しているが、二六才であった元亨二年一二月に右中将を解却され、七年後の元徳元年に還任するまでは無官であった。兼嗣が領家職の一部を有力者に寄進したこととともに。兼嗣の子・孫が不本意な状況にあったことも領家職を失った原因であった。

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