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2018年3月16日 (金)

杵築大社領の本家と領家6

 以前述べた内容について、ほぼ結論が出たので以下に述べる。
 嘉元四年(一三〇六)と翌徳治二年に出家して信照と名乗った松殿兼嗣が杵築大社領千家村を「五辻殿」へ一期分として譲り、その後は「大姫宮」へ進め、さらには大姫宮の後は惣領へ返すことを述べている(歴博所蔵田中家旧蔵文書)ことを紹介したことがある。なぜ信照はそのような事をしたのであろうか。
 兼嗣は母方の曾祖父藤原雅隆からその弟家隆に継承されていた杵築大社領家職を継承した。兼嗣の誕生は家隆が死亡した嘉禎三年の二年後であり、母から領家職を譲られた可能性が高いが、従三位公卿となった弘長元年には二三才であり、この頃から領家としての主導権を発揮するようになったと思われる。発給文書としては文永二年三月二〇日に、惣検校義孝からの幕府から安堵の下文を賜ってよいかとの申出に了解を与えたものが初見である。文永七年正月に杵築大社本殿等は焼失し、その再建が重要課題となったが、そこで兼嗣と義孝の関係が変化してくる。               領家家隆の時代に、国造家と神主(惣検校)職を争った出雲真高・実政父子が神主職補任を求めてきた。これに対して領家としての主導権を確保するため、兼嗣は国造義孝に代えて出雲実政を神主に起用した。ところが、国衙と社家が杵築大社造営を進めるための旧記は国造の下にしか保存してなく、当初は摂社である阿式社の例に基づき造営を開始したが、途中で知行国主・国守側から国造の所持する旧記の例に基づき造営せよとの命令が出された。ところが国造側が旧記を提出しないので、造営は遅々として進まなかった。また、実政が領家に対して不忠があったため、実政に代わって過去に神主としての経験を有するその父真高が神主に補任されたが、事態は変わらなかった。
 そのため幕府からは旧記を所持する国造を神主に補任すべきとの口入も行われた。国造は知行国主や幕府と結んでいたのである。結果として兼嗣は真高を解任して国造義孝を神主に補任した。これにより旧記に基づく造営が開始されたが、当時はモンゴル襲来の時期であり、国内の庄園・公領から造営の協力を得るのは困難であり、本殿の規模を縮小した上で弘安一〇年(一二八七)かその翌年に仮殿遷宮が行われたと思われる。
  続いて本格的な正殿遷宮が開始されたが、仮殿造営以上に困難であり進まなかった。そのため、宝治の正殿造営時と同様に幕府が朝廷に代わって造営を進めたが、国内の庄園・公領も疲弊しており、予定どおりには進まなかった。造営は国衙と杵築社領家により進められるが、神主職をめぐる対立とともに、領家をめぐる対立が出てきた。きっかけは弘安六年九月四日に本家であったと思われる安嘉門院が死亡し、亀山院が実質的支配者となったことである。杵築大社領は承久の乱に関わらなかった土御門院が本家であったため、乱の影響はほとんど受けなかった。ただ、土御門院が自発的に土佐への配流を望んだため、母である承明門院(在子)が本家となり、孫で、仁治三年に天皇として即位する後嵯峨を土御門殿で養育した。承明門院が正嘉元年七月五日に八六才で死亡すると、後高倉院の子安嘉門院領に組み込まれたと思われる。

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