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2018年3月10日 (土)

院政期の伯耆国守4

 光保は藤原信頼・源義朝のクーデターに参加した。後白河院政派の藤原信西入道が殺害されると葉室惟方などとともに平清盛と合流して、信頼・義朝方を破った。しかし二条天皇方としての行動が後白河院の反発を招き、永暦元年(1160)六月には後白河の命を狙ったとの罪で子光宗とともに逮捕され、薩摩国に配流され、現地で殺害された。
 基親は仁安元年(1166)八月二七日に交替するまで二期八年間にわたり伯耆守であったが、そこにどの理由があったのかは明らかではない。出雲国では重任して一宮の遷宮を行うことになっていた(就任時九才であり、父親範が知行国主であった)。
 基親の後任の伯耆守に補任された平国盛は平清盛の弟教盛の子である。仁安元年には七才であるため、父教盛ないしは平氏一族の中心人物が知行国主であったと思われる。崇徳上皇の側近として保元の乱での敗北により出家した日野資憲の娘が母である。翌二年二月七日には伯耆国は後白河の寵愛を受け高倉天皇を生んだ建春門院平滋子(平時信の娘)の分国(そのもとに知行国主平時忠がいた)とされ、その異母弟親宗が国守とされた。それが嘉応元年(1171)二月二日に葉室宗頼が伯耆国守に補任された。保延二年から五年にかけて分国主である父顕頼のもとで国守を務めた光頼はすでに出家しており、養父成頼が知行国主であろうか。その後任は安元元年九月一三日に伯耆守の現任が確認できる平時家であろうか。知行国主は時家の父平時忠であろう。ところが、治承三年一一月に反平氏の意向を前面に出した後白河院に対して平清盛が福原から上洛して院を幽閉するクーデターを断行した。この際に、建春門院の実家であった平氏一族も解官されている。伯耆国守が一一月一八日に清盛の異母弟忠度に交替したのはそのためであった。
 伯耆国は中国地方では平家の知行国となった期間が最も長いと思われるが、史料の不足から現段階ではその影響を明らかにすることができない。後日この時期の伯耆国の政治史について別の角度から検討したい。なお『鳥取県史』の史料リストには久寿元年の伯耆守にも葉室宗頼を記すという錯誤がある。

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