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2018年3月13日 (火)

鎌倉中期以降の伯耆国司3

 弘安五年八月七日には清原俊隆が伯耆守に補任されている。俊隆は「音博士俊隆真人」とも呼ばれ明経道の儒者清原俊隆である。平安後期の頼業から仲隆-教隆-俊隆と古典の学説が継承されていた。北条実時の子顕時も俊隆から借用した古典を書写している(佐藤道生「伝授と筆耕-呉三郎入道の事蹟」)。知行国主は宮内卿=前参議正三位藤原経業で、これまた日野氏で信盛の子で、経業の甥が親顕である。『勘仲記』正応二年(1289)一月二三日にも伯耆守親顕がやって来たことが記されており、親顕が再度伯耆守に補任された可能性がある。
 永仁五年(1297)一二月一七日には藤原隆有が伯耆守に補任されたが、六才であり父で三一才の隆政が知行国主であった可能性が高い。正安二年(1300)閏七月八日に伯耆国知行国主として現任している菅原在兼は在嗣の子である。九月一〇日まで伯耆守であった藤原光時と翌三年正月一六日に伯耆守に現任している定孝については関係史料がなく不明であるが、光時は在兼のもとでの国守であった可能性がある。しかし四月五日には和気敦長が、一〇月五日には橘知尚が伯耆守に補任されているように短期間で交替している。翌三年四月五日には和気敦長が伯耆守に補任されているが、系譜上の位置づけは不明である。
 正安三年一〇月五日には橘知尚が伯耆守に補任された。弘安七年~正応元年には父知嗣が知行国主である丹波国の国守であったが今回は不明である。ちなみに同年二月に知行国主は近衛実香から左中弁吉田定房に交替している。嘉元元年正月九日に伯耆前司とみえる重泰は元応元年ヵ七月一三日吉田中納言家(定房)奉行所奉書にも前伯耆守重泰として署判を加えている。系譜上の位置づけは不明である。定房は元応元年一〇月二七日に前権中納言から権大納言に昇進している。
 嘉元元年(1303)年五月一八日に伯耆守に補任された藤原実益は二〇才であり、永仁四年正月五日に従三位となった父公頼が知行国主とも思われたが(公頼の祖父公清は三条実国の子であった)、一方では嘉元二年に比定できる四月九日洞院実泰書状では実泰が二月七日後宇多上皇院宣をうけて伯耆国山守庄について青蓮院禅師御房に安堵しており、実泰が伯耆国知行国主であったと思われる。実益と実泰の関係は不明だが、公頼の子は実豊・実益と二人とも「実」の字を付け、実泰の子は公賢・公敏・公泰と「公」を付け、末子で長子公賢の養子になった実守のみが例外である(基本的に父ではなく祖父の一字を付けている)。
 年未詳六月一日堀川具守御教書では、伯耆国山田別宮に関する按察大納言(実泰)の御教書を石清水側の竹権別当僧都御房に伝えている。『鳥取県史』では正安五年から嘉元三年までのものと推定している。堀川具守が大納言で、洞院実泰が按察使(権大納言)という組み合わせが可能なのは乾元二年(一三〇三、正安は四年まで)から延慶二年(一三〇九)までである。これに実泰が伯耆国知行国主であったと思われる嘉元元年五月一八日から嘉元三年一二月三〇日を併せて考えると、嘉元元年から三年までのものと比定すべきであろう。
 嘉元三年一二月三〇日に伯耆守に補任された藤原時賢は清原俊隆と同様の学問の家に生まれた人物である。宮内庁書陵部には彼が元亨四年に筆写した『白氏文集』が残っている(太田次男「宮内庁書陵部蔵本白氏文集真楽府元亨写本について」)。
 以上、未だ十分に史料そのものを確認していないものもあるが、まとめてみた。院分国などにはなっていないようである。 一方でよく知られている日野氏から途中で分岐した日野氏一族が伯耆国支配に関わっていた。出雲国とは違っている。

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