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2018年3月14日 (水)

鎌倉中期以降の因幡国司3

 次いで因幡守としてみえるのは建治三年一二月一九日の長井泰重の子頼重である。弘安五年一二月六日の現任まで確認できる。頼重も父泰重同様、六波羅では探題に次ぐ地位にあった。次いで六年四月六日には藤原行通が因幡守に補任されているが、関係史料を確認出来ず、系図上の位置づけも不明である。弘安一一年(1288)三月二〇日因幡守奉書があり、大友親時が因幡守に現認していたことがわかる。正応五年二月五日には前因幡守と署名している。
 一方、『日本史総覧』は大日本史国郡表から正応元年二月に丹波成長が因幡守に補任されたとする。成長は弘安一一年二月一一日に因幡権守に補任され、正応五年二月に従五位上に除せられている以外に関係史料を確認出来ていない。正応二年四月二一日には伊藤某が因幡守に現任している。可能性としては在京人の御家人伊藤左衛門尉能兼ぐらいか。
 永仁二年(1294)一二月二四日に因幡守に補任されたのは文永年間の因幡守源師行の子雅行である。同五年七月二二日に去任となっている。乾元元年二月一六日と嘉元四年七月二五日には前因幡守藤原敦雄が確認出来る。嘉元元年(1303)正月二九日に因幡守に補任された藤原伊俊、延慶元年八月二四日に前因幡守高階某については関連情報を確認出来ていない。徳治三年八月三日の後宇多上皇譲状よると、因幡国は後嵯峨院(文永九年没)の代に亀山天皇分国と定められたとあるが、具体的な年次の確定はできていない。因幡守の任期が短くなる文永四年一二月補任の藤原憲俊からであろうか。出雲国は文永元年に後深草院の分国となっている。
 この後しばらく史料を欠くが、元亨元年(1321)一二月二九日には因幡守に藤原光雄が補任されている。これも関連史料未確認。同三年正月一三日には吉田経長の子資房が、一二月二九日には四条隆実の子隆資が因幡守に補任されている。資房は経長晩年の子で、因幡守補任時は二〇才であり、兄吉田定房が知行国主であった可能性がある。隆資は正中三年三月六日には周防守現任が確認出来る。隆資は父が早世したため祖父隆顕のもとで養育された。後醍醐天皇に登用され正中の変・元弘の変にも関わり、両朝分立後は南朝の公卿となるが、正平七年五月の男山の戦いで討死した。苦境に直面すると出家し、ほとぼりが冷めると還俗することを繰り返したため。四条河原の落書で批判された「還俗・自由出家」とは隆資のことだという。 嘉暦元年(1326)一一月二二日には宇多源氏五辻家源親直の子行直が因幡守に補任され、元徳元年一二月八日に去任しているが、知行国主については不明である。
  以上、因幡国についてとりあえずまとめたが、中宮の分国となったことや源通親流、九条道家や石清水八幡宮との関係。しばらく、特別な事が無い限りブログの記事の更新を休みます。これまでやった仕事の整理や家や地域の仕事を優先し、新たに気づいたことがあればアップするようにしたい。
(補足)後宇多院処分帳には因幡国がみえ、時期を特定できていないが、嵯峨天皇即位以後のある時期に因幡国が院分国となったことがわかり、前の原稿を修正した。

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