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2018年3月10日 (土)

院政期の伯耆国守3

 『長秋記』長承三年(1134)八月一四日条には、待賢門院側の要求を受けて美福門院の関係者が院から勘当の扱いを受け、備後守と伯耆守としての国務が停止されたことが記されている。しかし備後守と伯耆守の後任としてみえるのは保延二年正月二二日に補任された藤原俊盛と藤原光頼であることから、五味氏は停止されたはずの国務が復活し、その後保延二年に交替したとした。備後守とは長実の子長親であり、伯耆守は同じく子である時通である。ただし、保延二年以降、美福門院の兄弟である長実の子たちは没落して知行国は没収され、その孫である長明・隆輔兄弟(長輔の子)と俊盛(顕盛の子)が美福門院の分国の国守としてみえる。
 これに対して『鳥取県史』史料編では備後守=藤原顕経、伯耆守=藤原顕盛との比定が記されている。顕経の国守補任は確認出来ず、顕盛の伯耆守現任が確認できるのは大治二年までで、その後、尾張守在任中の長承三年正月二五日に死没しており、『県史』には何らかの錯乱がみられる。
  光頼に続いて伯耆守としてみえるのは永治元年(1141)六月一三日の家保の子家長である。家保の子で最も出世し知行国を持った家成はこの時点で三五才で右衛門督であり、その兄とされ蔵人に補任されたのが家成の四年前である家長は四〇才前後か。父家保は保延二年に死亡しており、弟家成が知行国主とは考えにくく、伯耆守家長の時期には知行国主はいなかったか院分であった可能性が大きい。長承元年正月一九日には白河院の娘恂子内親王御給として従四位に除されている。伯耆守は重任して二期八年務めて久安三年(1147)一月二八日には美作守に遷任している。
 これに替わった平親範は久安四年にはまだ一二才であり、三五才の父範家が知行国主であろう。その後任については保元元年正月二七日に「高階仲経」が補任されたとする(兵範記)。他の史料では「高階仲綱」(山塊記)、「某仲継」と情報が混乱しており不明であるが、 保元の乱後の保元二年一〇月二二日の時点でも現任している。
 これに代わったのが摂津源氏の流れをひく美濃源氏源光保の子光宗である。光保は鳥羽院の北面から出世し、久寿元年には出雲守となった。保元の乱では後白河院方として勝利し、乱後は二条天皇親政派の中心人物となった。光宗は保元三年四月二日に伯耆守に補任されたが、平治の乱の半年前である平治元年閏五月二八日には出雲守から遷任してきた親範の子基親が伯耆守に補任されている。

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