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2018年3月21日 (水)

吉田家領薗山庄3

 前後して正治二年(一二〇〇)の経房の処分帳をみたが、前欠である。死亡する直前のもので、嫡子定経の出家をうけてのものである。最後の四人が定経の男子(資経・経兼・為定・乙若丸)でその前に経房娘の子滋野井実宣と、定経娘の夫葉室光親なので、一部前欠となっている部分は定経の室に対する譲与であろう。
 周防国石国庄は一期の後に実宣に譲るとあり、前欠の部分にあったはずの薗山庄も定経室の一期後に嫡孫資経に譲られることになっていたと思われる。後白河院とその父鳥羽院、その子高倉院に関係する所領(周防国石国庄、河内国高瀬庄、紀伊国平田庄、安房国郡房庄内広瀬郷、下野国大内庄、美濃国平田庄内市俣郷等)が中心であるが、摂関家領(筑後国味木庄、伊勢国和田庄)や前回は無いとした元上西門院領(安芸国志芳庄)もみられた。
 また、前回、伯耆国宇多川東庄は経房の室の兄弟で、嫡子だった定経の室の父であった平親範の所領だとしたが、もう一ヶ所伯耆国稲積庄も親範領であった。親範は一二才であった久安四年(一一四八)正月に知行国主平範家(父)のもとで伯耆守となり、二期八年務めて保元元年正月に交替している。宇多川東庄と稲積庄の立券が行われたのは、この平範家が伯耆国知行国主であった八年間である可能性がある。または八年間の縁を頼って、退任後間もない時期になされたのではないか。範家は保元二年に従三位に叙せられ公卿となり、応保元年(一一六一)に四七才で死亡している。次いで平治元年(一一五九)から仁安元年(一一六六)にかけては親範の子基親が伯耆守となっている。基親の伯耆守就任時は九才であり、父親範が知行国主であった。
 経房処分状に安芸国志芳庄がみえ、当時は宰相中将旧室(参議兼左中将であった滋野井公時室のことであろう)が領家であった。彼女が不当な事を為し不孝ではあるが、所領は人の祐となるとして奪うことはせず、孫の為定を養子として一期の後譲るように申し聞かせたことを記している。

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