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2018年3月15日 (木)

徳大寺氏領長海新庄2

 問題となる上西院領分長海庄の内、新庄分領家職は徳大寺家が継承したが、本庄分については不明である。徳大寺氏と上西門院との関係は、徳大寺家初代の実能は上西門院の母待賢門院の同母兄である。同様に西園寺家の初代通季も同母兄であり、時期は特定できないが長海庄領家職は本庄は兄である西園寺氏、新庄は弟である徳大寺氏というふうに分割されたのではないか。というのは、西園寺氏二代目当主の公通は持明院氏初代の通基の娘を妻とし、その間に三代目当主実宗が誕生しているのである。実宗もまた母の兄弟持明院基家の娘を妻とし、その間に四代目当主公経が誕生している。このような西園寺家と持明院家の関係のもとで、長海本庄領家職は持明院氏が相続したのではないか。持明院通基は待賢門院官女で上西門院乳母となった女性を妻とし、その間に生まれたのが基家であった。基家もまた上西門院因幡を妻とし、その間に生まれたのが承久の乱後の出雲国知行国主であった家行の父基宗であった。家行の子家定が二階堂基行の娘を妻とし、その間に生まれたのが文永八年の長海本庄地頭持明院基盛であった。
 新庄が本所一円地とされた背景は不明であるが、本庄地頭基盛は領家職をも有していた可能性が高い。以前は本庄を関東御領ではないかとしたが、幕府が領家となる背景としては源頼朝が上西門院に仕えていたことがあるが、それだと新庄の説明ができない。今回は基盛は領家職を父家定から相続し、地頭職を幕府から補任されたとしたい。ただし家定も関東祗候の公家であり、地頭職もまた父から譲られた可能性もある。実際の長海本庄と新庄の支配を担ったのは出雲国守護佐々木氏であったと思われる。佐々木泰清が本庄で頓死したのはそのためであろう。本庄が関東御領との説の可能性も排除せずにおきたい。新庄については福田庄と同様、何らかの問題が生じて幕府が地頭を廃止した可能性もある。何度か記しているが、徳大寺氏三代目当主実定が死亡した際に、頼朝はため息をついて大変残念がったのである。

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