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2018年3月21日 (水)

吉田家領薗山庄2

 ⑥の宇多川東庄については建保二年(一二一四)二月一七日平親範置文があり、資経の母方の祖父平親範の所領であった。これと日吉社領宇多川上下庄との関係は不明である。宇多川上下庄は僧心豪の相伝私領が、保元年中に日吉社に寄進されたもので、国免庄であったため国司の交替で停廃されたが、長寛元年頃に再寄進され、四至牓示が打たれた。次いで平親宗が国司になるとまたもや停廃されたが、平時忠から社領は停廃してはいけないとの命令が出された。承久二年には後鳥羽院が課していた造内裏役の免除を求めている。なお親範置文には平氏と藤原氏の関係者一六人が証判を押しており、その中に資通がみえている。⑤の常陸国信太庄は平頼盛が常陸守であった仁平元年一二月に頼盛の母宗子(池禅尼)が領家として美福門院庁に寄進して立券したものである。ただし吉田氏の立場は強いものではなく、建治二年一〇月一七日吉田経俊譲状には④がみえるが、安嘉門院が弘安四年に死亡して庄園の本家職が亀山上皇、後宇多上皇に伝領される中、④⑤の領家職は吉田氏の手を離れ、後醍醐天皇が即位した文保二年には後宇多上皇によって信太庄は東寺に寄進された。その途中の嘉元四年の昭慶門院領目録には④能美庄と⑤信太庄はみえるが、領家に関する記載はない。
 その一方で建治二年一〇月一七日後深草上皇院宣(鎌倉遺文は亀山上皇院宣とするが、奏者平時継からすれば後深草となる)によって、中御門経任から為方への加賀国井家庄の譲与が安堵されている。前述の吉田経俊処分状では井家庄は子坊城俊定に譲られており、矛盾するが、その関係は不明である。井家庄は宣陽門院領であり、後深草上皇が相続していた。経俊処分帳に薗山庄がみえないのは、兄で嫡子であった吉田為経に譲られていたためである。資経処分帳で都護分とあるのは、当時前中納言で正月一三日に按察使に補任されていた為経であった。為経に①と②のうちの上庄、③が譲られ、弟経俊には②のうちの下庄と④の本庄、⑤、⑥が譲られている。その外に高経、資継、資通の五人に分割されているが、多いのは為経と経俊であった。ただし為経は康元元年(一二五六)に四六才で死亡し、その跡は経藤、経任などが継承した。一方、経俊は建治二年に六二才で死亡している。当初、経俊は四才年上の兄為経に大きな差を付けられていたが、為経の死後、その跡を継承するかのように昇進し、後嵯峨・亀山院に重用された。

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