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2018年3月14日 (水)

鎌倉中期以降の因幡国司2

 宝治元年(1247)五月二二日に因幡守現任が確認できる某広盛は知行国主久我通光のもとでの国守であろう。仁治三年一二月二五日に成功により右衛門尉に補任されている藤原広盛であろう。建長二年(1250)一〇月二四日には殿上人某長氏が因幡守であったが、知行国主は同年一一月一六日に現任している土御門顕定であった。顕定は同七年には出家して高野山に入った。建長七年一一月二〇日には西園寺公相が知行国主として現任している。正嘉元年(1257)五月一一日の日吉社小五月会流鏑馬には長井因幡前司泰重がみえる。泰重は大江広元の子時広の庶子で、嫡子泰秀が幕府で活動したのに対して、在京人として六波羅探題を拠点に活動し、探題に次ぐ六波羅評定衆筆頭であった。建長四年四月一日に新将軍宗尊親王を迎えた時点では長井左衛門大夫であり、因幡守補任はこれ以降のこととなる。因幡守となったのは祖父広元以来二人目である。
 同六月二二日には土御門通行の子通持が因幡守に補任され、正元元年(1259)五月一九日に止められるまで務めた。長井泰重に次いで因幡守となった某の後任と思われる。通持の後任は平顕兼であった。文永四年五月二〇日には因幡前司としてみえ、同五年六月一五日には使前因幡守とみえており、検非違使・北面系の人物であった。弘長元年(1261)一一月日後嵯峨院庁下文の署判者として因幡守藤原朝臣がみえる。文永四年一一月一六日には上北面としてみえる因幡前司藤原忠雄であり、顕兼の後任であろう。
 文永三年二月一日には源師行が因幡守に補任された。知行国主は中院通方の子雅家で、雅家の子が師行である。文永四年三月には雅家から重任の検注をやめて貞応取帳に任せて国務を行うべし旨を院宣で命じて欲しいとの申し出があったが、殿下(九条道家ヵ)によって却下されている。ここからすると雅家の知行国は師行補任前からとも考えられる。なお師行は文永一一年に石見国知行国主であった師重の兄弟である。
  文永四年一二月には藤原憲俊が、次いで文永五年一二月一六日には四条房名の養子隆名(藤原隆朝子)が因幡守に補任されたが、同七年正月二一日には去任となっている。文永八年九月二四日現任の某を挟んで文永九年七月一一日には行村流二階堂氏行久の子行清が因幡守に補任されたが、一〇日後の二一日は改任され行光流二階堂氏行泰の子行佐が補任された。ともにこの時点の幕府引付衆である。行佐の辞任時期は不明だが建治三年六月には没している。建治二年(1276)正月二三日には西園寺公相の子実俊が補任されており、その一方で関東評定伝では建治二年に行佐が因幡守現任としており、両者を矛盾無く理解するには建治二年正月に行佐から実俊に交替したことになる。実俊は補任時一七才であり、父公相が知行国主であった可能性が高い。

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