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2018年3月10日 (土)

院政期の伯耆国守2

 県史のリストでは次の関係史料は保延二年正月二三日に補任された葉室光頼であるが、五味氏の論文では大治二年(1227)一二月七日に備後守に補任されていた時通が、伯耆守藤原長親と相博したことが記されている。時通もまた長実の子で、長実の知行国であった備後国と伯耆国で国守が入れ替わったのである。
 五味氏の論文には『寺門高僧記』巻四が出典の一つにあげられており、編纂所のデータベースでその謄写本を確認すると、寺門(園城寺)が山門(延暦寺)により度々堂舎を焼かれた際の再建について述べてある。保安二年(1121)の焼失に対して、金堂造立のため加賀国を園城寺の長吏僧正に与えて、そのもとで西園寺(左衛門督)通季が僧正の旦那であったために国務を二期八年とったが、造営ができなかったために辞任したこと、その後加賀国に加えて長実の子時通に与えた備後国の国務で「一任」(一期)で造営を実現したことを記す。確認すると、保安二年閏四月に通季の弟季成が加賀守に補任されている。保安三年一二月に左衛門督に補任された通季が知行国主だったのだろう。次いで大治二年正月には院分国となった加賀国の国守に長実の弟家保の子家成が補任されている。
 時通の備後国補任は大治二年一二月であり、『寺門高僧記』の内容はほぼ事実を反映しているが、それとともに造営之功で国を賜う始めであるとも記している。次いで『寺門高僧記』には大治五年(1132)には参議長実卿に伯耆国を賜い、金堂・廻廊・三重塔を造営したが、講堂并塔は造らずと記している。 
 まとめると、長実の子長親の後任として同じく子である時通が伯耆守に補任され、長実の知行国としての伯耆国は維持された。それが変わるのは保延二年正月二二日の葉室光頼の伯耆守補任であった。光頼は保延五年一二月三〇日まで一期四年務めたが、知行国主は父顕頼であった。天仁元年の家光以降、光頼に至るまで伯耆国は常に院分国か院近臣(平正盛・藤原長実・顕頼)の知行国であった。とりあえずはここまで。

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