koewokiku(HPへ)

« 鎌倉初期の伯耆国司1 | トップページ | 鎌倉初期の伯耆国司3 »

2018年3月12日 (月)

鎌倉初期の伯耆国司2

 伯耆守に戻ると、元久年間の源盛忠をへて承元二年八月一三日には藤原行隆の子行時が伯耆守に補任されている。知行国主はその兄弟で葉室宗頼の養子になっていた宗行である。
建久五年に安芸守に補任されたのは養父宗頼の申出によるものであった。その母は元八条院女房越前であり建久九年正月五日に従五位上に除せられたのは中宮給(九条兼実の子宜秋門院)であった。養父宗頼は九条兼実の「執行家司」であった。建仁元年(1201)一二月二二日に出雲守に補任されたが、翌年一〇月二九日には伊予守に遷任している。知行国主は養父宗頼であろうが、建仁三年正月二九日に死亡している。
 宗行のその後の昇進は遅れていたが、承元二年(1208)に伯耆国知行国主となったのは、この少し前から後鳥羽院との関係を深めていたことぐらいしか頭に浮かばない。元久元年四月一四日に権右中弁、建暦元年(1211)正月一八日には右中弁、九月八日には左中弁、一〇月一三日には右大弁、翌二年一二月三〇日には蔵人頭と急ピッチで昇進し、建保二年(1214)一二月一日に正四位下参議に進んだ。建保六年には正三位・権中納言となったが、承久の乱の首謀者として鎌倉に護送途中の駿河国で斬られた。その女子には花山院忠経の室となったものがあった。
 建保三年五月三〇日には『平戸記』の筆者平経高が伯耆守(知行国主の誤りであった。鎌二一六二)としてみえる。朝儀・公事に関して高い見識を有し、政務に練達した人物として知られ、建暦元年(1211)正月には鳥羽院・順徳天皇という体制のもとで右少弁に補せられ、承久二年正月には右大弁から順徳天皇の蔵人頭と、宗行と同様の昇進を示した。その一方で九条道家や土御門定通との関係を有した。承久の乱では失脚することなく、元仁元年(1224)一二月二一日に従三位公卿となり、嘉禄二年(1226)には参議に補任された。

« 鎌倉初期の伯耆国司1 | トップページ | 鎌倉初期の伯耆国司3 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 鎌倉初期の伯耆国司2:

« 鎌倉初期の伯耆国司1 | トップページ | 鎌倉初期の伯耆国司3 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ