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2018年3月13日 (火)

鎌倉中期以降の伯耆国司2

  光平の後任と思われるのが建長五年(1253)一二月二二日の時点で伯耆守に現認している為俊である。編纂所の中世記録人名索引データベース(経俊卿記)では中御門為俊に比定しているが、この時点で為俊の父経任が二一才であり成り立たない。幕府に祗候する公家の一人遠藤為俊であろう。貞応二年(1223)には北条政子の使者としてみえ、寛元三年(1245)五月に幕府の使者が上洛した際に、『平戸記』の筆者平経高が複数の人物と情報を交換しているが、その一人に遠藤右衛門尉為俊がみえる。仁治元年正月二六日条では経高は「関東住人右衛門尉為俊」と呼んでおり、在京人となり、六波羅と鎌倉の間をつないでいたのだろう。宝治元年正月五日には上北面上臈為俊とみえ、検非違使・北面系の人物であった。その娘が結婚した宇間左衛門尉も『吾妻鏡』に登場し、同様の性格を持ったと思われる。
 その後しばらくは史料がみえないが、文永元年六月一一日勧学院別当宣や同年並びに翌年の藤氏長者宣(前者は二条良実、後者は一条実経)の奏者として前伯耆守式房がみえる。系譜上の位置づけは確認できていないが、文暦元年(1234)一二月一一日内蔵頭殿(右大弁堀川光俊)奉書の奏者としてみえる左衛門尉式房も同一人物であろう。式房は検非違使・北面系の人で、有力貴族の執事的役割を果たしていた人物であったが、主人との関係は流動的であり、文永年間には摂関家のうち九条系とつながりがあった。
 文永二年五月五日の新大納言藤原顕朝拝賀の前駆殿上人には伯耆前司資通と前伯耆守為頼がみえている(民経記)。前者は後述の吉田資通であろう。後者は建長六年七月二日に北野神輿功により右衛門尉に補任された藤原為頼と同一人物で検非違使系の人物であろう。両者とも正確な在任期間は不明である。
 文永三年(1266)年九月二六日に補任されたのが中原行実で同四年までの現任は確認できるが、翌五年一〇月二四日には前伯耆守行実とみえる。二年後の文永七年八月二一日には再び伯耆守行実と記されているので、復任した可能性はある。下北面、検非違使大夫尉ともみえている。
 文永年間後半の伯耆守は不明である。前述の文永一一年の安嘉門院政所下文の署判者に前伯耆守藤原朝臣とあるのは吉田資通である。弘安二年(1279)七月三日に伯耆守に補任された親顕は日野氏流藤原信盛の兄弟親業の子である。この時点で二一才であり、父親業が知行国司であった可能性がある。翌弘安三年の御幸始めの供奉人として前伯耆守経雄がみえる、日野俊国の子であるが、『公卿補任』をみるかぎり文永六年三月二七日に因幡大掾に補任されているのみで伯耆国との関係は確認できない。弘安七年二月日二位家政所下文の別当として前伯耆守藤原某がみえるが、比定はできない(民経記の記事を加筆)。

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