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2018年3月 6日 (火)

知行国主の有無2

 出雲守に補任された藤原顕頼は一五才で、父顕隆が坊官賞として補任されるのを子に譲った形となった。顕隆の同母兄為隆と同母弟長隆は摂関家との関係が深かったが、顕隆は院との関係が強かった。顕頼の祖父為隆が知行国主であったとの説もあるが、三七才の父顕隆が知行国主であろう。因幡守には顕隆の同母弟長隆が補任された。三〇才前後であったと思われ、五味氏は父為隆が知行国主であったとされるが、いなかったであろう。
 但馬守には源義親の乱を鎮圧した功により平正盛が補任された。隠岐守・若狭守・因幡守をへてのものであり、知行国主はいなかったであろう。尾張守に補任された高階為遠は、阿波守に続いて伯耆守を二期八年務め、そこから遷任して尾張守となった。宗忠は春に御祈物を献じたことで尾張守に遷任とコメントしている。その後、永久五年には丹後守に補任されている。知行国主はいなかったであろう。
 淡路守に補任された藤原兼平は出雲守、和泉守への補任を経て淡路守となった。淡路守の後任藤原輔明は院分国のもとでの補任であったが、兼平の時点では知行国主はいなかったであろう。伊豆守に補任された中原宗政は尊勝寺の功で補任されたが、院庁主典代ということもあって同じ功の人々を含めて上臈一〇人を越えての抜擢であった。知行国主はいなかったであろう。
 安房守に補任された藤原師国は寛治二年には佐渡前司とみえるように、国司は経験済みであったので、宗忠は「六位国に任中一で補任」とコメントした。二度目で小国はおかしいとの意味であろう。知行国主はいなかったと思われる。薩摩守に補任された藤原為綱は検非違使から下って(位階が下の)薩摩守になるのは順番が違うとコメントした。北面からの補任で、知行国主はいなかったであろう。
 以上一四例を見たが、白河院分国1、堀河院分国1、藤原顕隆の知行国が1で、その他の11ヶ国は知行国主はいなかったと思われる。これが白河院政の実質的開始の状況であった。

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