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2018年3月29日 (木)

鎌倉後期の杵築社遷宮2

 以後、知行国主・朝廷の文書は残っておらず、造営料の確保についても幕府が命じている。正応・永仁年間には出雲国の反別三升米で造営を行うよう命じていたが、造営が進まないためか文保二年(一三一八)一二月には国衙の正税の半分を宛てる方針が示された。次いで元亨三年三月五日にはその事が行われていないとして、先に経替えて沙汰したいとの国造の申請を幕府が認めている。問題はこれで造営が完了し、正中二年(一三二五)に遷宮が行われたかである。応安三年八月二八日出雲大社神官等申状にはその旨が記載されている。
 その意味で翌嘉暦二年(一三二七)九月五日関東御教書が問題となる。正税の半分とは一万一八七〇石と想定されていたが、実際は七五八〇石で治定したとして、これでは不足なので、正応・永仁の例に任せて反別三升米を課して造営を急ぐべきとしている。嘉暦二年の時点でも造営は完了していなかったと評価すべきである。造営の完成と遷宮の実施はこれ以降のことであろう。隠岐に配流中の後醍醐が鰐淵寺に対しては本願が成就した際には造営を約束する願文を捧げているのに対して、杵築社にはその形跡がないため、とりあえず幕末には遷宮が完了していたと思われる。
 国司についても元応元年(一三一九)には洞院実泰が知行国主であり、嘉暦元年二月には一三才の園基隆が国守に補任されたことがわかるのみである(以前の記事で知行国主は父基成か母方の祖父小倉実教と推定)。基隆は翌二年四月八日には右兵衛佐に補任されており、この時点で出雲守は交替した可能性もある。また嘉暦元年三月には守護佐々木貞清が死亡し、これに伴い従兄弟である富田師泰と佐世清信・古志宗信も出家している。清信の室は富田師泰の娘であり(清信は湯頼清の晩年の子で嫡子となったか)、宗信の母は富田義泰の娘=師泰姉妹である。次いで七月には一族の長老(七二才。泰清の子ではこの時点で唯一の生存者であろう)で焼失した鰐淵寺の再建に関心を寄せていた高岡宗泰(富田義泰の子宗義を養子とし、自らの娘は富田師泰の室)も死亡しており、正中三=嘉暦元年に遷宮が行われた可能性は低い。

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